「社畜」から「無頼」へ

まだ本になっていない拙稿『君たちはどう働くか:30年後の世界』のなかで、わたしは「社畜」から「無頼」へという節を設けている。そこには、つぎのようなことが書かれている。

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「仕事」を見出せ

 会社に飼い慣らされて「家畜」のように、会社から命じられるままに唯々諾々と労働をする者は「社畜」と呼ばれている。会社自体がしっかりとしていれば、社畜であってもなかなか過ごしやすいと言える。奴隷や家畜は主人が用意する食料や住環境のもとで生活するが、それがまあまあ快適であるうちは文句をつけようとはしないだろう。これと同じく、まずまずの暮らしができる賃金さえもらっていれば、労働者は社畜として会社のための働くことになんの疑問ももたないだろう。まさに、「サラリーマンは気楽な稼業」と言えた時代があった。

 いまは違う。会社自体が破綻したり、会社が解体されて分社化されたりする確率はこれまでの三十年とこれからの三十年を比べると、後者の確率は倍以上高まるはずだ。急速に進む技術革新のなかで会社自体、分権化や分散化を迫られており、これまでの上意下達から分散型の会社運営が求められるようになっている。そうなると、上司からの命令にしたがって労働していればまずまずの賃金をもらえるという夢のような、あるいは奴隷や家畜のような「サラリーマン生活」はできなくなってしまうだろう。

 **君よ。もはや「社畜」でいられる時代ではないのだ。そうであるならば、若いみなさんはどうすればいいのか。たぶん、「無頼になれ」という本書の主張がその答えになると思う。最初から、過度に会社に依存せず、自分で人生を切り拓くための準備を常に心がけるという無頼的生き方が重要になる。最初からstart-upsを実現できれば一番望ましいのかもしれないが、それができない場合には、いつか自分が経営者になって自立することをあこがれて仕事をすればいい。自分のなかに複数の分人をつくり出し、リスクヘッジをはかるのだ。

 そのときもっとも重大な課題は「仕事」を見出すことである。すでに指摘したように、「仕事」と「労働」は違う。生命を維持するための活動である労働とは異なり、仕事は時間や空間を超えた普遍的ななにものかと向かい合えるような活動を意味している。だからこそ、そうした仕事をするのは楽しい。むしろ、人間にとって大切なのは、退屈や貧困、さらに悪徳から逃れて、労働ではなく仕事を見出して熟練、自立、普遍をめざして活動することではないか。「働き方改革」の神髄は「仕事を見出す」ところにあるのだ。

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「無頼」とは何か

実は、わたしが「無頼」という言葉が好きなのには理由がある。それは、内村剛介著『ロシア無頼』が気に入っていることに関係している。拙著『ロシア革命100年の教訓』(Kindle版)につぎのように書いたことがある。

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第3章 「ロシア無頼」という教訓

 

(以下、縦書きを横に印字)

 

 1 無法が法

 

 ロシア革命の本質を本音で語った唯一の日本人は内村剛介であろうと筆者には思われる。その著書『ロシア無頼』を読めば、ロシアの真実がわかるような気がする。一九四五~五六年までラーゲリに抑留されていた内村だからこそ指摘できるロシアの内実があるからだ。

 彼の刺激的な見方を紹介しよう。

 「銀行を暴力で収奪したヤクザが若い日のスターリンであった(一九〇七年六月、国立銀行の巨額金塊を輸送する馬車がスターリンらに襲撃:引用者註)。その貢(みつ)ぎでレーニンが海外で暮らした。ペン一本で稼いだトロツキーは職業を持っていたから、このスターリンのやり口を許せなかった。レーニンやスターリンはトロツキーのように自分の手で稼がなかった。つまり職業という職業を持たないで革命だけを商売にした。そして自分自身を職業的革命家とかなんとか称しているが、この「無職ゆえの職業的革命家」は「無職のロシア無頼」とその信念、その手口において親類関係にあることは疑えない」(内村, 1980, pp. 63-64)。

 「「ボリシェヴィキを縛る法なんてものはない」というのがレーニンである。ボリシェヴィキはレーニンのひきいるロシアの共産党だが、この党はこと自分に関しては一切の法を認めない。「すべては許されてある」とドストエフスキーのスメルジャコフまがいに言うのである。法のないことをすなわち無法を二〇世紀の新たな法とするのがボリシェヴィキである」(内村, 1980, p. 28)。

 といった辛辣な放言が並ぶ。なお、明確に指摘しておかなければならないことは、スターリンが「二重スパイ」であった可能性がきわめて濃厚であることだ(Radzinsky, 1996=1996, 上, pp. 135-136)。内村のスターリン評は「当たらずとも遠からず」の印象をもたらしている。

 ロシア語では無頼の徒を「ブラトノイ」ないし「ヴォール」と呼ぶ。後者は「法にのっとった盗賊」のようなかたちで使われ、「盗賊」の意に近い。前者は、内村によれば、「ブラート(コネ)の人」、「結びあった人」、「血盟の人」を意味する(同, pp. 37-38)。「ブラート」はユダヤ人の言葉、イディシが起こりで、一九世紀から、いまのウクライナのオデッサで用いられはじめた。その後、ロシア語化し、犯罪者たちの頭目がロシア全土にわたる組織をつくったのだという。ブラトノイ同士の連帯は固く、ブラトノイを文字通り命をかけて守る。ブラトノイ集団は集団側が新メンバーを採用することによって増員してゆく。だが、希望者側の申し出を検討することはしない。既存のブラトノイが入会を提案するのだ。ブラトノイは「法」なるものを軽蔑し、自分たちだけの不文律が彼らにとっての「法」となる。

 内村は、ソヴィエト政権はよく組織だった連帯の堅固なブラトノイの世界に対して、「一九一七年以来不断の戦いを挑(いど)んで今日に至っている」と記している。しかし、それはソヴィエト政権とブラトノイの世界の異質性を意味しない。むしろ、両者は驚くほど近似している。「無頼は彼ら固有の人間の尊厳を守るためにこそ掟があると信じているが、その掟を制定する原理を見ると、まず目につくのは全体主義である」という内村の指摘は興味深い(同, p. 46)。全員一致を原則として例外を認めない全体主義を特徴としており、「無頼全体主義社会へいったん入った者は、全体が一致しない限りそこを出られないといったことになる」のだ。だからこそ、ソヴィエト連邦はロシア無頼に通じるものがある。そこに通底するのは、無産の原則である。「無頼も共産主義者も無産の原則においては似た者同士である」のだ(同, p. 61)。さらに全員一致の原則も共通している。「民主集中制」と称して、事実上、全員一致の「民主主義」がソ連でまかり通っていたことはあまりにも有名だ。

 ロシア無頼の起こりは農奴制と深くかかわっている(同, p. 34)。「コサック」はトルコ語の「向こう見ずの人間」を起源としており、有名なドン・コサックはイワン四世の圧政を逃れたロシア正教徒が武装した集団であった。ロシアでは、自由は逃亡を意味したのであり、その逃亡者のうち、二度と生業につかぬ者が現われた。これがロシア無頼の起こりではないかと、内村はのべている。

 この逃げ出した者はいわば、無国籍者であり、所有権のような権利をも喪失する。人権そのものをなくした者と言えるかもしれない。実は、本書で何度も紹介しているアーレントは、「全体的支配への道の決定的な第一歩は人間の法的人格を殺すことだった。無国籍者の場合この殺害は、彼がすべての現行法の保護を受けられなくなることで自動的に完了する」とか、「人間からその権利を奪うこと、人間の裡にある法的人格を殺すこと、これは全体的な支配がおこなわれるための前提条件」と指摘している(Arendt, 1951=2014, pp. 246, 252)。実は、第一次世界大戦後、こうした人々が大量の難民や亡命者のかたちで中・東欧地域に大勢いた(黒瀬, 2004, p. 81)。それは、農奴からの逃亡としてロシア国内にいた多数の無頼の存在と類似している。そこに、アーレントのいう『全体主義の起源』があるのかもしれない。

 

「共同体家族」という価値観

 

 (中略)

 

 ハムたるロシア無頼の徒党・共産党中央部

 旧約聖書に登場するハムと言えば、ノアの箱舟で有名なノアの息子、セム、ハム、ヤペテの一人である。世界ではじめてぶどうの栽培に成功したノアは飲みすぎて裸になるという失態を演じる。これをみたハムは、他の兄弟に告げ口するのだが、セムもヤぺテも父の醜態を後ろ向きになって顔を向けず、さらに上衣で父を覆い隠した。つまり、ハムは権威者の失態を暴露することで、権威に対する反逆の姿勢を明示したことになる。だからこそ、息子らの対応を知ったノアはハムの息子であるカナンを呪い、カナンの子孫がセムとヤペテの奴隷となる予言したのである。ハムではなくその末息子、カナンを呪うことでカナン以後に生まれてくるカナンの子孫までも呪いつづけるという意図があった。

 こうした事情から、ハムは「無礼ぶしつけ鉄面皮を合わせて二乗したような存在」ということになる(内村, 1980, p. 158)。そのうえで、内村は、「ハムたるロシア無頼の徒党・共産党中央部の懐刀はハムそのものであるチェキストだ」と断じている(同, p. 158)。ここでいう「チェキスト」は「チェーカーの人」を意味している。ここでわかるように、ロシア無頼の核心はロシア共産党を陰で支えていた「チェーカーの人」たる「チェキスト」にあるのだ。

 

 ロシア無頼=ボルシェヴィズム

 宗近真一郎は、こうした内村の独白をつぎのようにまとめている。

 「私見では、「ロシア無頼」は、歴史の弁証法を現実において初めて化肉してみせたボルシェヴィズム、ロシア各地を放浪する定義困難な「自由の民」を嚆矢とし、「党」の秩序と正義によって暴力と抑圧を行使する犯罪社会主義の担い手となり、ソ連崩壊を経過した二十一世紀においては、所有権や生産への基本的エートスを裏返すかたちで怜悧に「所有」を独占した少数のオリガルヒ、そのオリガルヒを制圧するプーチン政権のハードな権勢へと連綿する。これは、痛烈な弁証法や唯物弁証法へのイロニーではないか」(宗近, 2010, p. 201)。

 その意味で、「ロシア無頼」の立場から、ロシア革命を見直すことはいまのロシアを理解するうえでも重要なのだ。ただし、この無頼は必ずしもロシア特有のものではない。「生産せず、所有を認めない「無頼」が「官」なるものを媒介にして、ソフトとハードの振幅で荒ぶることがある」のであって、ロシア無頼はロシアだけの無頼ではなかった(同, p. 203)。フランス革命でもロビスピエールという無頼が存在したのである。

 

 ブラートとはなにか

 つぎにブラトノイ(ロシア無頼の徒)の淵源である「ブラート」について考えてみたい。ブラートは、「不足した商品やサービスを受け取るための、同じくさまざまな生活上の諸問題を解決するための社会的ネットワークや非公式の接触の利用」を意味している(Барсукова, 2012, p. 89)。いわば、コネを活用した相互扶助を指していることになる。バルスコワは「ブラートはソヴィエト社会の構造的な制約の反映であった」として、ソヴィエトが支配したソ連時代にブラートが蔓延したとみなしている(同, p. 88)。これは、計画に基づく「上からのデザイン」を肯定するアプローチをとってもみても、実際には計画通りにゆかず、その破綻を取り繕うためには、非公式のコネに頼らざるをえなかったソ連社会の実相に対応して広まったのである。

 具体的に言えば、実際に必要な商品やサービスがカネがあっても手に入らない現実がソ連時代に恒常化したことで、ソ連国民はブラートを活用してなんとかすることを強いられたのだ。誕生日のお祝いにキャビアを用意しようとしても、入手困難であるため、コネの連鎖を使ってなんとか見つけ出すのである。あるいは、不足している医薬品をどうしても緊急に必要とするとき、ブラートに助けを求めるほうが公式ルートに頼るよりもずっと確実な方法であった。こうしたブラートに基づく交換をアレナ・レデネワは「give-and-take的実践」と呼んで、一般的な腐敗と区別している(Ledeneva, et al., 2000, p. 10)。give-and-take的実践は非公式の便宜交換を意味するブラートが社会的なネットワークの形で形成されていた結果として行うことができたわけだ。

 注意喚起しておきたいのは、ソ連の五カ年計画や年度計画はあくまで法律として制定され、その実施は法に基づく執行という形式においてなされたことである。その意味で、そんな法がどうせ実践できないことはわかりきっていたから、国民はそうした法=計画を、ある意味で無視していたことになる。ロシア無頼のボリシェヴィキがロシア革命によって支配するようになると、国中にロシア無頼特有の法の軽視が広がるのだ。無頼の全員一致原則から、ソヴィエト社会全体に無頼の悪弊、「無法が法」というしきたりが広まるのである。

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『なぜ「官僚」は腐敗するのか』

拙著『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮新書)のなかでは、「第3章 官僚腐敗の背景」の第2節において、つぎのように書いておいた。

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「無頼」になれ

 単独者たる個人は「無頼」という言葉に似ています。無頼と書くと、随分、悪いイメージをもつ読者も多いかもしれません。しかし、無頼は「だれにも頼らない独立自尊」という含意をもっていますから、本来、立派な面をもっているとも言えなくもありません。無頼は「自主独立の精神」と結びついており、それ自体は称賛に値します。他方で、こうした精神によって既存秩序を乱される側からみると、「悪」とイメージされることになります。つまり、無頼は立場によって評価が異なる二面性をもっていることになります。

 日本ではすべてを自己責任と感ずる精神を、「悪党」と呼び、源平の名だたる武将をはじめ、楠木正成や北畠親房など南北朝の忠義を代表する武将たちもみな「悪党」と呼ばれていたことを思い出しましょう。当時、既存の支配者に対抗した勢力を「悪党」とレッテルづけしたわけです。しかし、別の面からみると、かれらは新しい時代を切り拓く力量をもった革新的勢力であったのです。

 この無頼の二面性に実によく気づいていたのが芥川龍之介です。自殺した一九二七年の作品、『或阿呆の一生』の「三十三英雄」において、レーニンとおぼしき人物が取り上げられています。「が、背の低い露西亜人が一人、執拗に山道を登りつづけてゐた。……あの山道を登つて行つたロシア人の姿を思ひ出しながら」とあって、つぎの詩が書かれています。

 

  誰よりも十戒を守つた君は

  誰よりも十戒を破つた君だ。

  誰よりも民衆を愛した君は
  誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

  誰よりも理想に燃え上つた君は
  誰よりも現実を知つてゐた君だ。

 まさに、無頼であったレーニンは二面性をもっていたことになります。

 わたしは、こうした二面性をもった「単独者=個人=無頼」をめざして、一人でも多くの日本人が努力することが「官僚による腐敗」という構造を打破するために必要な第一歩だと思うのです。実際には、そうした人々の数を増やさなければ、改革は実現できませんから、これはあくまで長期的な課題なのかもしれませんが。

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自分自身で会社を興せば、無頼の実践になるのはたしかだろう。あるいは、会社に入って、無頼をかこつこともできる。要するに、既存の価値観から距離を置いて、もっと別の生き様に挑戦すればいいだけの話だ。

若い人々の奮起を願っている。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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