『プーチン3.0』と『ウクライナ3.0』のパブリシティについて

ようやく『ウクライナ3.0』を書き上げた。その結果、少しだけ時間ができるようになった。当面、拙著『プーチン3.0』と7月末刊行の『ウクライナ3.0』を宣伝するため、広報活動にも力を入れなければならないと考えている。というのは、『デジタル地政学』という本を書こうと思っているので、出版社にもそれなりの「業績」を残さないと、次作の出版が危ぶまれるからである。

 

講演について

そんな矢先、5月28日、「名古屋哲学研究会」なる組織から、講演依頼を受けた。絶好のタイミングということになる。というわけで、快諾の返信をしておいた。

こうした依頼に対するぼくの姿勢は友人、出口治明さんの教えに基づいている(ぼくと彼の名前と友人で検索するとつぎのサイトに出会えるhttps://books.google.co.jp/books?id=JfG1AgAAQBAJ&pg=PT18&lpg=PT18&dq=%E5%87%BA%E5%8F%A3%E6%B2%BB%E6%98%8E%E3%80%80%E5%A1%A9%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E5%BD%A6%E3%80%80%E5%8F%8B%E4%BA%BA&source=bl&ots=TRye6WByK7&sig=ACfU3U2kBHPZQ5pNmp0VlVtQ2Xvs0TAQXA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwisptSd0YP4AhWMSJQKHQkNBvYQ6AF6BAgCEAM

)。交通費はいただくにしろ、報酬は気にしないというのがそれである。もちろん、依頼先が「いかがわしいケースもなきにしもあらず」なので、安易に承諾するわけにはゆかないが、まあ、しっかりした機関・組織からの依頼であれば、断る理由はない。少なくともいまは、暇な時間があるのだから。

というわけで、ぼくの話が聞きたいという方は「お問い合わせ」という欄から、メールを送ってみてください。なお、暇とは言っても、ウクライナこと、ロシアのこと、テクノロジーの問題など、毎日、こまめに世界中の情報をチェックするという作業もあるので、そう頻繁に講演をするわけにはゆかない。ゆえに、「早い者勝ち」になることをあらかじめ書いておきたいと思う。

 

若い人々に伝えたいこと

ぼくは6月21日で66歳になる。見た目は若く見えるぼくだが、本当は死期が近づいている。ゆえに、若い人々の将来を相当に心配している。

その昔、ぼくは庄司薫という作家に、中央公論社経由で、手紙を書いたことがある。当時、彼が中央公論に連載中の「さよなら怪傑黒頭巾」という作品に登場する人物と同じ格好をした人を、同じく作品に登場する紀伊国屋の喫茶店で見かけたという話を書いた。すると、彼から似顔絵入りのはがきが届いた。そこには、「君の将来を相当に心配しています。」と書かれてあった。ぼくが東京教育大学付属駒場高校に通っていたころの話である。

その後、庄司薫が妻、ピアニスト中村紘子と二人で歩いている姿を麻布十番で見かけたことがある。中村さんとは、モスクワの日本大使館で一度だけ立ち話をしたことがある。

というわけで、ぼくも若い人々の将来を相当に心配していると言いたい年頃になった。

なぜかというと、世の中の本当のことを親も先生もなかなか教えてくれないからだ。その理由は、彼ら自身が気づいていないという可能性が高い。もう一つは、時代の変化で外部環境自体が変わってしまうことがある。もう一つは、「巨悪は眠る」のであって、なかなか尻尾をつかませないからである。

 

本当のことが言えない世の中

大学院時代の恩師が言った言葉で忘れられない言葉がある。「君たちのために、だいぶ遠慮している」というのがそれである。わかりやすく言えば、大学院生の就職口を探すために、いろいろな大学の教員と少なくとも喧嘩するのはまずいので、たとえ学問上の議論であっても手加減してかからないと大学院生にまで被害がおよぶことを恐れてのことらしい。

いまも隠然としたかたちで、イデオロギー問題というのが一部の学問分野にはある。ぼくの学んだ分野では、マルクス経済学なるものと、近代経済学なるものがあって、相互に牽制・対立し合っていた。ぼくからすると、どっちもどっちであって、どうでもいい問題なのだが、蛸壺化した学会のようなところでは、そんな「党派性」を気にかけるマヌケがたくさんいた。まあ、こうした連中はすべて学者としては二流、三流どころか歯牙にもかけがたいバカばかりなのだが、こうした連中が日本の学問の世界をダメにしてきたし、いまでも基本的に変わっていないとぼくは思っている。本当に絶望的な状況がつづいている。

 

ウクライナ危機が教えてくれたこと

「単独者」として、「現実」に向かい合い、精緻な分析や洞察によって、「制度」や「理論」について徹底考察しようと心に決めてから、8年ほどになる。そのきっかけは2014年春のウクライナ危機であった。当時の話は拙著『ウクライナ・ゲート』や『ウクライナ2.0』に譲るとして、ぼくがこのとき痛感したのは、学者、政治家、官僚、マスメディア関係者がほぼ全員のいい加減さだった。2月21日に起きたクーデターに肉薄できないまま、アメリカ政府の主張べったりの報道や論文を公表して、したり顔をしている連中の不誠実な「生き方」そのものに人間として赦せないという怒りを感じたのだ。

もっとも事実に近いことを丹念に紹介しているぼくの著作を無視することで、こいつらはいまでものうのうと偉そうにしている。そんな連中が、いまのウクライナ戦争について語っている日本って、いったい何なのだろうと思う。だからこそ、『ウクライナ3.0』の「はじめに」は、つぎのような書き出しではじまる。

 

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 いま、世界中は集団的ヒステリーと言える状況にある。ウクライナ戦争の実態を伝える映像は人々の心を揺さぶっている。こうしたなかで、冷静な議論を求めても難しいかもしれない。それでも、ぼくは『プーチン3.0』を上梓し、今度は『ウクライナ3.0』を書き上げた。

 拙著『プーチン3.0』はウクライナ戦争をロシアに焦点を当てて論じたものであった。本書『ウクライナ3.0』はウクライナにスポットを当てながら、ウクライナ戦争の本質に迫ろうとしている。過去に、『ウクライナ・ゲート』および『ウクライナ2.0』を刊行した者として、『ウクライナ3.0』を書くことはいわば義務のようなものであった。ウクライナ政府がヴァージョンアップしたわけではないが、ロシアによる軍事侵攻にあった当事国という、これまでとは異なる新しい段階にあるウクライナを論じるに際して『ウクライナ3.0』というタイトルをつけることにしたものだ。

 

 無知という責任

 この2冊を書くにあたって心にあったのは、「無知」に対する責任を呼び起こすという使命感といったものだった。感情論が先走ってしまっている状況下では、こんな使命感は何の役にも立たないかもしれないが、よく似た状況であっても、しっかりした視線から言葉を発した人物に励まされて、ぼくは著述をつづけてきたことになる。その人の名は、伊丹万作である。彼の書いた『戦争責任者の問題』をぜひ読んでほしい。

 ぼくはこの著作を読んで、海に囲まれて能天気に過ごしてきた日本人の精神性が基本的にまったく変わっていないことに気づいた。第二次世界大戦で敗れた日本では、映画監督伊丹のいた映画界にあっても、戦争責任者を特定し、追放するといった議論がさかんに行われていた。当時、「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという」風潮が広がっていたのだが、伊丹はこうした当時の世相に対して、辛辣な批判をこの本のなかで書いている。

 

「そしてだまされるものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧政を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒瀆、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。」

 

「「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追及ということもむろん重要であるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」

 

 おそらく、「批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」という指摘は、いま現在の日本全体にもあてはまっているように思われる。それゆえに、いまでもマスメディアの情報操作に惑わされて、ウクライナ戦争の本質に迫れない人ばかりが目立つのだ。

 だからこそ、「だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始める」ことが21世紀のいまもなお求められている、とつくづく思う。ゆえに、「勉強しろ」と『プーチン3.0』にも書いておいたわけだ。

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無知は決して恥ずかしいことではない。大切なのは、自分が無知であることを意識化したうえで、その無知にどう落とし前をつけるかにかかっている。無知のままで、流されて生きるという生き方ももちろんある。だが、そうした人々は生きて死んでゆくだけで、自分の人生を生きたことにはならないだろう。一回だけの特殊な自分を生きても、それは一般人というなかでかき消されてしまうだけの人生にすぎない。

ぼくは、十代のころから、アリストテレスの考えたこと、カントが考えたことを知りたいと思った。かれらの哲学を踏まえて、21世紀の哲学を語ることを夢想した。だからこそ、慶應義塾大学の澤田允茂を指導教授として修士課程に入ろうとしたのだ。退官までの期間から、「君の面倒をみられない」との理由で門下生になることはできなかったが、ぼくは自分の無知を意識化し、過去に学ぶことをいまでも毎日つづけている。

 

この話の肝は、自分が無知であることに気づくことである。マスメディアを観ても、肩書きだけの学者や政治家の書いたものを読んでも、「事実」や「現実」に近づくことはそう簡単にはできない。まっとうな人物の著作を探し出し、熟読玩味する作業が必要になる。ぼくの場合で言えば、柄谷行人、大澤真幸という、実際に会って話をした人物こそ、ぼくの「思考の灯」となってくれている人たちだ。若いころで言えば、庄司薫もそうした人物の一人であった。井筒俊彦という学者はぼくのめざした学者である。

こんなぼくからみると、「知の巨人」と称せられる立花隆など、アホそのものであり、まだまだ勉強が足りない。文芸春秋の商魂に騙されてはならないのだ。

 

もう時間がなくなった。勉強に戻ることにしよう。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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