大澤真幸著『〈世界史〉の哲学 現代篇2 アメリカというなぞ』を読む (3)
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「アメリカン・ルネサンス」⇒19世紀の前半の1830年代から、南北戦争の1860年代まで
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この時期にはじめて、ヨーロッパの文学の模倣にとどまらない、アメリカ独自と評価しうる文学作品が一挙に現れた。⇒エマソン、ホーソン、ソロー、ストウ夫人、メルヴィル、ホイットマン
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アメリカン・ルネサンスの本質は何か。それは、この文学運動の中でリーダー的な役割を担った著述家に着眼することから見えてくる。その著述家とは、ラルフ・ワルド・エマソンである。エマソンが提唱し、推進した思想運動は、「トランセンデンタリズム」と呼ばれる。
一神教の本来的な理解からすれば、神は、自然や人間から圧倒的に隔絶され、超越している。この神の超越性を最も徹底して追求したのが、カルヴァン派である。トランセンデンリズムは、カルヴァン派に対するアンチテーゼであると捉えると理解しやすい。つまり、トランセンデンタリズムは、その名に反して、神の絶対の超越性を否定する思想である。この思想によれば、神は、人間や自然に内在することを通じて、神と一体化することができる――あるいは神に近づき、その超越者としての性格を具現することができる、とされる。
ここから明らかであろう。アメリカ史のダイナミズムを構成していた二つのベクトル、〈自然〉
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への指向と〈文明(=神)〉への指向とが完全にひとつになったときに現れるのが、トランセンデンタリズムである。先ほど述べたように、二つの指向は必ずしも対立しないのだが、それでも、一般には両者の間には緊張関係がある。普通は、一方を強化することは、他方を弱化させることを代償としている。しかしトランセンデンタリズムにおいては、両者はまったく矛盾なく融合している。ヨーロッパのコピーを超えたアメリカ固有の文学が生まれたのは、二つのベクトルが相克的にではなく、相乗的に結合した稀有な瞬間だったのではないか。
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ではまずユニタリアニズムとは何か。ユニタリアニズムもまた反発の産物だ。それは、トリニタリアニズム(三位一体論)に反対する考えである。
ポイント――ユニタリアンの拒否のポイント――は、「子なるキリスト」にある。子なるキリストを認めることは、イエス・キリストのまったき神性とまったき人間性の両方を肯定することである。キリスト教の「不可解さ」や「不合理性」はここに集約されている。そこで、イエスを(神ではない)ひとりの人間、道徳的に卓越してはいるが、結局は純粋な人間であると考える。これがユニタリアンである。
アメリカのユニタリアニズムを生み出した
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のは、ピルグリム・ファーザーズの信仰、すなわちピューリタニズム(カルヴァン派)である。ピューリタンは三位一体説を維持してはいたが、しかし、彼らの教義の中では――たとえば予定説においては――、神にして人間であるところのキリストの役割は非常に小さい。このやっかいなポイントを排除して、合理化を徹底させれば、ユニタリアニズムが導かれるだろう。
そしてピューリタニズムからユニタリアニズムへと結ぶ線を、さらに延長させれば、トランセンデンリズムが得られる。ピューリタニズムからユニタリアニズムの転換は、簡単に言えば、「神」の抽象化である。ユニタリアニズムのコスモロジーの中では、神は受肉することはなく、地上で奇蹟を起こすこともない。が、このとき神の実在性そのものが希薄化する。この経験的な世界に自らが存在していることの証拠を示さないのだとすれば、神はいかなる意味で存在していることになるのか。逆に神が抽象化されているのに、なおその存在の証がこの世界にあるとすれば、それはどのような場合だろうか。自然や人間が、超越的存在(神)を示す「記号」のようなものとして機能する場合であろう。それこそ、トランセンデンリズムが含意していることである。
「人間同意の関係の物神性」(支配-従属関係)と「モノ同士の関係の物神性」(商品と貨幣の物神性)の間にはトレードオフの関係がある。『資本論』の商品論・貨幣論を参照しつつ、少し前にこのように論じておいた(第10章)。前者の物神性は、通常の意識的な進行に対応している。後者の物神性においては、信仰は、「意識」のレベルから「行動」のレベルに移されている。言
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い換えれば、それは無意識の信仰である。ふたつの物神性の間にトレードオフの関係があるならば、つまり一方が強くなると他方が弱くなるような関係があるとすれば、二つの物神性が均衡する過渡的な段階を、論理的には想定することができる。つまり、「人間同士の関係の物神性」はおおむね消えているが――民主的な平等性が実現されているが――、しかし信仰が完全には無意識されていない段階があるはずだ。そのような段階こそがトランセンデンリズムにほかならない。
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プラグマティズムの二つの起源
・学問的な意味での厳密な起源(チャールズ・サンダース・パース)
・社会的な起源(ウィリアム・ジェイムズ)
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プラグマティズムとはどんな哲学か。どこがそれほど新しかったのか。基本的なことをまずは確認しておこう。それまでの西洋の哲学が思い至らなかった斬新さは、認識に関する最も根本的な問題、つまり「真理とは何か」ということに関する、独特の回答にある。ある認識、ある観念、あるいはある信念が真であるかどうかは、それらが事実と一致しているかによると、一般に考えられてきた。その一致は、観念の明晰さとして自覚される。しかし、パースは、このように理解されてきた観念の「真」ということよりも、その観念の「有意味性」の方が重要だと主張した。
有意味性――パースの言う「有意味性」――とは何か。彼はこう主張する。ある認識が意味を
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もつかどうかは、それが実際的な帰結をもつかどうかに依存する、と。では実際的な帰結とは、どういうことなのか。それは、われわれが行為において活用しうる帰結、という趣旨だ。対象に対してわれわれが何らかの仕方で働きかけるとどんな帰結が生じるか。実際的な帰結はしたがって、言語化したときには、必ず「もしpであるとすれば、qである」という条件文のかたちをとる。“p”には行為が指定する条件が、“q”には観察可能な結果が入る。
たとえば、「この石は硬い」という命題。普通、この命題は、「この石」という個物が「硬さ」という性質をもっている状態を記述している、と解釈される。だが、そうするとただちに、「硬さ」という普遍的性質はどのような資格で存在しているのか、その普遍的なものを個物がいかにして「もつこと」ができるのか、等の問題が発生する。パースが提唱するプラグマティズムは、しかし、こうした問題をすべて回避できる。先の命題を発話するとき、われわれは、対象=石に対して何らかの作用を及ぼそうとして行為したときの、対象=石に生ずる変化――感覚的に検出できる変化――に着眼している。この点を留意すれば、命題の意味は明らかだ。すなわち、この命題は、「この石は、引っ掻いたり、圧力を加えたりしても、傷がつかず、凹みもしないだろう」という条件文に言い換えられる。
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だから、近代科学は二律背反(アンチノミー)の前に立たされた。一方で、経験は不確実で、真理を直接には認識できない。他方で――もはや聖なるテクストをあてにできないとすると――、真理のための手がかりは経験にしかない。この二律背反に強いられて編みだされた特殊な経験のタイプが、「実験」である。実験は、経験の経験性を差し引いた経験だ。経験の本性は「多」である(個人ごとの多様性がある)。しかし、実験は、この「多」を「一」に近づけようとする(「誰が実施しても同じ」という状況を作る)。
さて、この近代科学が直面していた、「経験」をめぐる二律背反を背景に置いた場合、プラグマティズムとは何かが、明瞭に見えてくる。さしあたっては、こう言うことができるはずだ。プラグマティズムの「意味の理論」は、経験に対する極端な懐疑を克服したときに、つまり経験を信頼したときに生まれたのだ、と。たとえば、石に対する行為を通じてわれわれが経験すること、それこそが、石の性質をめぐる命題の意味である。
もっとも、ここで、私が今、「さしあたっては」という留保を付けたことに注意してほしい。
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ここで述べたようにプラグマティズムを評価した場合には、ただちに、「それならば、経験への懐疑はどこに行ってしまったのか?」という問いが提起されるはずだ。実は懐疑は消えてはいないのだが、さしあたっての暫定的な理解を提起しておく。
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推論の三つのタイプ
・演繹deduction
・帰納induction
・アブダクションabduction
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一般に推論とは、前提から結論を導き出すことである。演繹は、ある事実Aと「AならばB」という規則を前提にして、事象Bを導き出すことである。真なる前提からは真なる結論が導き出される。演繹の場合、規則「AならばB」が妥当で、Aという事象が確かに成立しているならば、事象Bは必ず真である。帰納は、観察した限りで事象Aには事象Bが常に伴っているとき、「AならばB」という規則を結論として導き出すことだ。帰納は、演繹の場合と異なり、前提が真であったとしても、結論が真であるとは限らない。そのため、論理学は、帰納よりも演繹を重視してきた。
ではアブダクションは、どのような推論か。パースは次のように説明する。まず驚くべき事象Bが観察される。しかし、ここで「もし事象Aが真であれば、Bは当然のことがらである」と考えられるとしよう。以上の前提は、「Aが真である」と結論する理由となる、と見なす。これがアブダクションである。ここで、Aは、驚くべき事象Bを説明する仮説にあたる。
パースの例
陸地の真ん中でたくさん
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の魚の化石が発見された(B)。これは驚きである。しかし、もしここがかつて海であった(A)と仮定すれば、魚の化石がたくさんあったとしてもふしぎではない(A→B)。ここから、この一帯ははるか昔に海だったに違いない(A)という仮説を立てる。アブダクションは、このように仮説を形成する推論である。
今し方並べた論理式から一目瞭然だが、アブダクションは、ほんとうは誤謬推理である。ここで、論理学では「後件肯定の誤謬」と呼ばれてきた、誤った推理が使われている。「A→B」という関係と前件Aからは、確実にBが導き出される(これが演繹だった)。しかし、「A→B」と後件Bからは、必ずしもAが真であるとは言えない。ゆえに、Aは仮説の域を出ない、ということになる。また、後件Bの方から論理的な関係を遡るようにしてAが推論されているので、アブダクションは前述のとおり遡及推論(リトロダクション)とも呼ばれている。
パースは、アブダクションの重要性を強調した。論理的な厳密性を前提にすれば誤謬だとしても、科学において――のみならずわれわれの日常の生活において――、頻繁に活用されているのはアブダクションである。
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アブダクションは、パースの「探究の理論」の中に組み込まれて、その中で特定の役割を果たす。探究の理論を理解するためには、あらためて信念とは何かを、明確にしておく必要がある。われわれはここまでの議論もすでにそのように暗黙のうちに前提してきたように、信念とは、パースによれば――というよりパースが引用しているアレグザンダー・ベインの定義によれば――「人がそれに依拠して行為する用意があるもの」である。たとえば私は、明日は台風がこの地に上陸するだろう、と確信している。そう信じていれば、私はそれなりの準備をするだろう。たとえば明日は外出せずに済むように、打ち合わせをキャンセルしたり、オンラインに切り替えるべく手配したりするだろう。明日の天候についての私の信念は、私の今日の行動において、依拠すべき前提になっている。
さて、信念(信じること)の反対は、懐疑(疑うこと)である。パースによれば、信念は快として、懐疑は不快として体験される。信念が確固としていると、「信じている」という状態は、
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単に「知っている」という状態に近づいてくる。確実な「信」は「知」へと漸近し、ほとんど「知」と区別がつかなくなる。というより、「知」とは、疑いの余地がまったく消えてしまった「信」と言うべきだろう。いずれにせよ、「知」に近づいた核心をもっているとき、われわれは安心し、満足を覚えている。それに対して、何が正しいのか分からず疑っているとき、何を信じたらよいのか定かではないとき、われわれは不安であり、不快だ。人は一般に、不快を避け、快へと至ろうとする。この人としての本性に規定された営み、すなわち懐疑を脱して、信念に達しようとする努力、これが探究である。
懐疑と信念のギャップを埋めるもの、懐疑から信念への越境を可能にする要因、それは何なのか。それこそ、アブダクションにほかならない。これまでの信念の集合の中には想定されていなかった事実、これまでの信念からは導き出すことができない事実に遭遇したとき、われわれは驚く。こんな山の中で魚の化石が見つかるとは、等と。驚きは疑いに転ずる。「これは何だ?」「なぜここに?」。驚きと疑いとは表裏一体の状態である。驚きの事実に対して、これを説明できる仮説をあらたな信念として措定することが、アブダクションであった。
いったん、仮の信念が設定されたら、その信念の妥当性が、アブダクションとは異なる他の推論の方法によって検証される。まず、アブダクションを通じて提案された仮設を真だとしたとき、そこからどのような経験的な帰結が、必然的に――あるいは高い蓋然性をもったこととして――導かれるのか、検討する。この作業を遂行するのが演繹である。演繹的推論は分析的推論である。すなわち、前提(この場合は仮説的な信念)の中にあらかじめ含意されていることを取り出す推論である。
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最後に登場するのが、帰納だ。すでに演繹を通じて、仮説的な信念から、いくつもの帰納が提示されている。それらの帰結がどれだけ実際の経験と合致するのかを確かめるのが帰納である。よく合致するのか。もし合致しない場合には、仮説である信念をどう修正すればよいのか。本質的ではない小さな修正で十分なのか。それとも仮説をすべて棄却しなければならないのか。帰納の仕事は、このように仮説をテストすることにある。
探究の過程で、すべてのタイプの推論が動員される。が、鍵的な任務を担うのはアブダクションである。他の二つの推論(演繹と帰納)は、信念がすでに設定されている範囲内で働く。アブダクションだけが、決定的な越境、懐疑から信念への越境を果たす。アブダクションは、懐疑状態に根をもち、信念の状態に到達する。
このことは、アブダクションが拡張的推論――いや本質的な拡張的推論であることに関係している。拡張的推論とは、分析的推論とは逆に、経験的事実の世界に関する知識を拡張するように働く推論のことである。分析的推論は、前提のうちに含意されている知識しか引き出すことができない。驚きの事実を視野に収めることができるのは、拡張的推論の方である。帰納もまた、拡張的推論のひとつだとされるが、帰納は既知の現象と類似の現象へと知識の範囲を広げるだけだ。帰納によって、知識は量的には拡大するが、既存の信念において想定されてはいないような、驚きをもたらす事象に対しては、帰納は無力である。懐疑(驚き)と信念を結ぶのはアブダクションだけである。
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