大澤真幸著『〈世界史〉の哲学 現代篇2 アメリカというなぞ』を読む (4)

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物象化→物象化とは、本来は「関係」であるものを、あるいは関係のうちに生起する「過程」を、事物のように表象することである。

物象化はどうして生ずるのか。その原因は、一般的価値形態としての貨幣の浸透にともなう商品・貨幣の物神化にある。第10章(3、4節)で述べたことを確認しておこう。資本主義的な市場において、われわれは――つまり人間は――、人間同士の関係をめぐる物神崇拝からは解放される。われわれは、自由で合理的な醒めた功利主義者であるという自己意識をもつ。が、このとき、モノ(商品)たちが物神崇拝を始める。モノ(商品)たちが、貨幣を神とする信仰の虜に

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なっている。私は「迷信」や「神秘化」からは自由だと思っているが、モノの方が――いわば勝手に――信じている(かのような事態が出現する)のだ。

これは、名詞によって指示される(抽象的な)事物のごとき心的行動・心的状態がエージェントとなっている――「観察」そのものや「優雅」そのものが主体のようにふるまっている――、(後期)ジェイムズの作品世界のようではあるまいか。つまり、「心理的名詞化」は、商品・貨幣の物神化が浸透した社会の状態に敏感に反応した文体である。

 

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資本主義というシステムが作動しているとき、ほんとうは二つの第三者の審級が同時に機能している。「顕在的な(商品の)価値体系に対応する現在的な第三者の審級」と「潜在的な――より普遍化された――価値体系に対応する未来の第三者の審級」である。未来の第三者の審級が、現在において――潜在的に――先取りされているのだ。この二つの価値体系の間の差異から剰余価値が発生する仕組みになっている。現在の顕在的な第三者の審級は、来るべき未来の第三者の審級が顕在化したときには棄却されることになっている。

 

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教会(キルヘ)

信団(ゼクテ)

信団は教会とは異なる集団類型に属している。教会はアンシュタルト(Anstalt)の一種だが、信団はフェライン(Verein)に属する。

アンシュタルトとは、特定の効力範囲――通常は空間的な領域――に内在している個人を、先験的に成員と見なす集団である。たとえば、ある地域に生まれたということが理由で、メンバーと見なされる集団がアンシュタルトだ。メンバーは、いわば強制的に加入させられており、参入・離脱を選択することはできない。たとえば「国民」という共同体は、アンシュタルトである。いくつもの重要な例外があるが、大多数の日本人は、日本人の一員になることを意識的には選択しておらず、日本人にさせられていたことに後で気づくだけである。これに対して、フェラインは、選択的に加入した個人のみを成員とする、合意に基づく集団である。会社や学校は、あるいは趣味のサークルなどは、もちろんフェラインの方に入る。この集団の分類を活用すると、

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教会はアンシュタルトであり、信団はフェラインだということになる。人は信団に、自らの信仰への確信に基づいて、主体的に加入するからだ。

信団のメンバーたちを結びつけ、連帯させる紐帯は何か? それは、「われわれはともに神に選ばれている」という、(メンバーたちに)共有された意識であろう。ヴェーバーは、「神の選民だという信仰がピュウリタンのうちに壮大な復活をみせた」と論じている。この選民の信仰が、信団の紐帯をも構成しているのだ。

 

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ハイデガーの考えでは、近代にニヒリズムをもたらしたのは、西洋形而上学の中にある「作為性」の契機である。その起源――最も有力な起源――は、ユダヤ-キリスト教にある……ハイデガーはこのように見なしていた。神が無から世界を制作したとする、ユダヤ-キリスト教の創造説は、西洋形而上学の存在了解の中核に、「作為性」を刻み込むことになった、というわけである。

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西洋形而上学における「作為性」の起源は、ユダヤ-キリスト教だけではない。古代ギリシアにおいても、プラトンやアリストテレスは存在を――ハイデガーによれば――「事物の制作」をモデルとして了解しており、「作為性」へと方向づけられてはいる。つまり、「存在している」ということは、「制作されて-ある」ことだと捉えられていたのだ。しかし、ユダヤ-キリスト教の創造説は、作為性の意義を圧倒的に強化しており、そのインパクトは、ギリシア哲学の比ではない。ユダヤ-キリスト教の影響がなかったら、作為性が、存在論の主導的な要素にまではならなかっただろう。

 

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ハイデガーの哲学にとって最も重要な区別は、「存在者と存在の間の存在論的差異」である。存在者と存在とはどう違うのか。しばしば、本質(なんであるか)と実存(何かがあること)の区別と対応づけられて解釈されてきたが、この点については、ハイデガー自身が、実存を本質に対して優先させるサルトル的な議論は、いまだに形而上学の範囲内のことである、と斥けている。ならば、存在論的差異とは何か。どう解釈すればよいのか。存在者とは、もちろん、さまざまなかたちで現れるものたちである。存在とは、それら(すべての)存在者たちがそこに置かれるがゆえに意味をもつことができる地平のことであろう。そのような地平自体は、存在者(のひとつ)ではない。

 

存在の歴史性が主題となるとともに重要な意味をもつようになる概念が、「性起」(エアアイクニス)である。

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性起(しょうき)は、真理が―存在者に意味を与える新たな解釈学的な地平が――到来する出来事のことだが、戦災で微妙な含みをもっている。以下に私の解釈を述べておこう。

端緒には、歴史を超えた主体としての「存在の理念」のごときものが人間(現存在)にメッセージを送ってくる、というイメージがある。「性起」という概念は、このイメージを否定する――あるいは切り崩すものとして導入されている。どういうことか?

普通は「出来事」と訳されるドイツ語 “Ereignis(性起)”の字義通りの意味は、「視野にやってくるもの」である。この字義を考慮に入れて、次のように理解すればよい。人間は――そしてまた出来事も――有限なのだから、超歴史的な存在の真理がまるごと人間に現れるなどということはない。そうではなくて、存在の真理は部分的に開示され、注意深く見ようと構えている人間の視野に、一瞬、飛び込んでくるのだ。部分的に開示されるということは、部分的に隠蔽されているということでもある。性起とは、この開示と隠蔽の戯れ、あるいは存在の(部分的な)開示でもあるところの(部分的な)隠蔽である。この開示であり隠蔽でもあるところの出来事の向こう側に、大文字の「真理」や「存在」がある……というわけではない。存在とは結局のところ、この開示と隠蔽の戯れでもあるような出来事(性起)以外の何ものでもない。

さて、ハイデガーの「存在の歴史」は、西洋近代においてその頂点に達するニヒリズムの原因への探究でもある。ニヒリズムとは、「存在の忘却」である。今述べてきたように、存在は、もともと(部分的には)隠蔽でもあるようなかたちでしか開示されていないのだから、存在の忘却は、

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隠蔽の自棄、(開示との戯れの中にある)隠蔽のさらなる隠蔽という形式になっている。このこととの問題性については、あとで少しばかり立ち返る。まず確認すべきは、ニヒリズムの本体は、存在の忘却だということだ。

ハイデガーによれば、ニヒリズムの元凶は、西洋形而上学がもたらした「主体性」である。古代ギリシアにすでにその萌芽があるのだが、近代において究極の完成に至る主体性。これこそが、ニヒリズムの原因だ。人間の主体性が追求しているのは、もっぱら存在者を支配することだからである。存在者の支配を拡大することだけに熱中し、存在は忘却される。

この「主体性」の批判は、よく知られているハイデガーの「近代的技術」への批判に直結している。近代的技術は、主体性の端的な現実化だからである。「技術」を参照すると、主体性を定義する要件は何なのかが明確になる。主体性を構成する本質的な態度は、「作為性」である。存在者を作りうる状態に置く作為性だ。言い換えれば、主体性を主体性たらしめているのは、「意志」である。意志こそが、その主体の行為をひとつの作為として構成することになるからだ。

ハイデガーは、『哲学への寄与』の中で、主体性の本質であるところの作為性を、「前に(vor)-立てること(stellen)」と定義している。この “vorstellen”は普通、「表象する」を意味する。ハイデガーは、この動詞を原義にさしもどすことで、作為性の定義を導き出しているのだ。あるいは、第二次世界大戦中に執筆された覚書『性起』では、自ら自身を意志する意志――つまり「意志への意志」――が論じられ、そのメタレベルの意志によって「意志されている意志」が、作為性とまったく同様に、「前に-立てること」として捉えられている。

 

 

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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