岡崎乾二郎著『而今而後』を読んで――その①
2025年7月10日、岡崎乾二郎著『而今而後』(亜紀書房、2024年)を読了した。おそらく、この本をもっと以前に読んでいれば、過去に私が書いた本や論説の内容はもっと別のものになっていたように思う。それだけ心に突き刺さる論点がたくさんあった。
そこで、例によって、メモ書きをここにとどめることで、今後の考察の拠り所としたい。
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これも創作方法の原理から見ると当然のことで、たとえばサディズムとは人間を動物として、道具として、物として、対象を扱うレベルを次々と組み替えていってしまうことであり、このロジカル・タイプの破壊が自己拡散、自己改造として快楽に感じられるわけである。
つまり対象を扱うロジカル・タイプの区切り方を次々と組み替えていくことによって、対象を変容、解体させ、さらに自己自身の変革をも同時に成し遂げるというわけだ。
コマ割り まんが
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けれど、こうした消化器官への注目ということこそ、水木しげるのまんが、そして描かれたものの特徴でもあった。ご飯を食べる話とともに、うんこやおならに関する話は好んで頻出します。戦争に行ったときの話でも、たとえば水木二等兵が便秘で、やっと出たのはいいけれど、太く堅く、かつ長く、なかなかうんこが切れなくて、お腹に戻すわけにもいかず、そうこうするうちに朝礼に遅れて、脱走兵が出たと大騒ぎになるという実話が書かれています。問い詰められて水木さんは、このうんこの事実を、残らず詳細に上官に報告するのだけど、この後、ピンタの嵐を浴びるという話と、農民だった上官が「そうか、わかった」とだけ答えて放免されるという話が二つ書かれているので、どっちが本当かわからいのです。けれど自分の頭は、きちんと命令に従って行動しようとしたのだが、いかんせん消化器官が反乱を起こした、という水木さんの考えは、このエピソードにはっきり示されていると思います。
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第一次大戦後、ヨーロッパでは文化の枠組みが大きく変容しました。いままで、まっすぐ進んでいると思われていた歴史が終わるわけですね。そしてそれぞれが異なる時間を刻む多数の文化、言語が多層的にあることを認識せざるをえなくなった。この多数性は一人の人間の中にもある。フロイトもそれまでの「意識」「前意識」「無意識」の三つの組みの理論を大きく転回して、「超自我」「自我」「エス」(英語では「IT」、スティーヴン・キングが小説にしています)の三つの組みのモデルに転回する。
もっとも重要なのは「エス」です。エスを導入することで無意識を実体的に捉えることを止めるんですね。フロイトは「超自我」「自我」「エス」の三つの組みのモデルを国土の比喩で説明します(『続精神分析入門』)。その国土の上にはドイツ人とかマジャール人とかさまざまな民族が住んでいるんですが、魚
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釣りの好きなスロヴァキア人が湖のそばに住んでいるとは限らない。住む場所の特質=風土が民族の性格と一義的に結びついているわけではない。いろんな場所にさまざまな民族が入り乱れて住んでいるんだと。どんな民族でも誰でも受け入れる、この豊かな自然を持つ多産的な場所こそがエスなんですね。対して、ここでさまざまな民族と言われているものをさまざまな言語あるいは表現形式と考えてもいい。エスは多産的、好奇心の固まりで、あらゆる言語、表現形式(相互に矛盾していようとかまわず)に影響を受け、それに感染し、自らの上に住み込ませる。フロイトが国土という言葉を使っているのは重要です。なぜならフロイトは、ここで文字通り、第一次大戦が起こった原因を精心の構造になぞらえているわけだから。
この比喩をさらに展開すると、この場所の上に住む民族をそれぞれは他の民族を追いやってでも、一つの国家として国土を統合し秩序を作ろうとする。それと同じく、エスに住み込んだ言語形式はそれぞれが他の形式を抑圧してでも、自我として一貫した組織を形成しようとする。でも、そこで抑え込まれた他の民族、いや他の言語形式は表に出ない分、余計に強まって、消えることなくエスの地中に残る。表に出ないときは時間が流れないからずっと劣化せずに残るということになるでしょう。時間が経過せず、そのままの姿で保存される。それが不意に表出する。それをフロイトは「無意識的なもの」と言い換えた。それは無意識ではなく、抑圧された多数性の現れなわけですね。こうして、まさに水木さんの描く妖怪のように、多数の言語、多数の表現が、地中ならぬエスの中に、それぞれ、まったく別の時間の流れを持って、多層的に住んでいる。隠れている。それが突然現れる。自我は、いばっているけれど、そのうちの可能性の一つでしかない。
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フロイトは生物は死んでいる状態が一番安定していると説いた。生きているということは不可逆的な時間の中でのストレスの蓄積であり、擦り切れたところで再び安定した死の状態に戻る。死んでいる状態がむしろ平常である。そういう世界では普通の結末ある物語も、勝ち負けだけの戦争も成り立たない。対して現象としての死は現在を代表する表面、自我にだけ起こる。身体の全部が死ぬのではない。臓器移植した胃が他の人の身体の中で生きていたりする。そうでなくても、微生物をはじめ物質は必ず残る。こうしてエスの部分は、何百万年も火星人が地底で待っている状態、河童王国が一万年目の奇蹟を待つような時間の中に残る。死とは、三平がもう決して戻ってこない、単に二度とたぬきやかん平には会えないということであって、「携帯電話が切れて」もう二度と会話できなくなったというのと変わらない。それ以上は確認できない。それまではわれわれだって、河童の世界があることも、小人が生きていることも知らなかったのだから、知らなかった状態に自分自身が戻るというだけです。
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たとえば礼楽という古代中国の日常生活の技法が、再び問題として重要となってきたのは、西洋で言えば、ちょうど啓蒙主義の時代にあたる17世紀から18世紀後期の江戸時代でした。つまり芸術という近代的概念の誕生と時を同じくしています。乱暴に言えば、朱子学批判という文脈で語られる伊藤仁斎、新井白石、本居宣長、平田篤胤といったような人たちの論争の核心にあったのが、礼楽の問題であり鬼神の問題であったと言えるとも思います。新井白石はその博物学的知識と合理的思考で同時代の西洋の学者にも匹敵する人は少ないと称された人物ですが、彼は鬼神――たとえば、それは誰もが持つ死後の世界などの不可知の存在への恐れから生まれてくるのですが――それを自然の原理として合理化し説明しようとした。けれど言い換えれば、この合理的な新井白石にしても、知の限界を超えた外に、こうした判断不能の世界があることを否定したわけではなかったということです。徂徠などはゆえに、こんな白石みたいに「気」などの理屈で説明したって鬼神という不可解なものの存在は動じもしない、この不可知さ、つまりは人の知の限界をどう扱うかが問題だと考えた。その方法が礼楽であり、道と呼ばれるものでした。人知の及ばぬ鬼神があると定めたほうが人々の心も世の中も効率よく治まる。
これは日本だけの話ではありません。啓蒙主義の時代というのは世界的に同じような問題が発生してきている。それは視野が格段に拡がり情報が増大した時代と言っていいわけですが、ここで発見された
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のは、容易に一元化できない不均質な世界です。さまざまな異なる世界があることも、人がそれぞれ自分自身ではどうしようもない、理性で制御しきれない部分――それこそ鬼神ですが――を抱えていることも発見された。そして当然のようにそこで問題となったのは、こうした不均質な世界を効率よく、いわば合理的にどう扱うかということですね。いちいち納得のいくまで調べていたらやってられない。知の限界をどう定め、どう扱うか、その方法と言ってもいいでしょう。たとえば目的なき合目的性という言葉があります。これはカントがそもそもは自然に対して適用した概念ですが、僕なりに翻案すれば、その与えられた対象を、それ以上「なぜ」とか「なんのために」とか問わず、そのようなモノとして、それ自体完結したもの、むしろ規範として扱えということですね。つまりは知の無制限な拡張をそこで止める。それ以上進むと自己解体してしまう限界です。当然この目的なき合目的性として扱わなければならない最たるものは人間自身の存在ですが、重要なのは、芸術という奇妙な対象に付与された性質こそ目的なき合目的性だったということです。先ほど椹木 (野衣)さんが「美術」という概念がいかに日本に輸入されてきたか語られましたが、われわれが現在「芸術」と呼んでいる、なんの役にも立たないがそれ自身価値があることが認められるという不思議な概念も、つまり当の西洋でも、この時代に発明されたものだったということです。
話を戻すと、礼楽というのは祭祀祭礼ですが、このように完全に制御しきれない存在、不可知の存在に惑わされず、つつがなく人々が生活を営んでいくための技術でした、現在でも、たとえばお葬式があったり、門松があったり……。お葬式から帰ってくると塩をまいたりということをする。それをする本人たちは理性的には、こんな迷信じみた風習を決して信じていなくても、それをしなくちゃ、なんとなく落ちつかない。そういうのが礼楽の問題です。たとえば夜電気をつけていないと怖く眠れないとい
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う子どもがいるとする。この不安は合理的でなく迷信じみたものです。しかしこの子を説得するよりも、電気をつけておいてあげるほうが、この子の不安を解消する方法としてははるかに合理的であり、効率的です。つまり礼楽というのはきわめてプラグマティックなものだということです。そういう不安を抱える子どもの固有さというか特異さを認めることがかえって効率的、合理的な結果をもたらすということです。これを人の集団というか社会の単位にまで拡げていくと、年賀状やらお歳暮やらお盆やらということになる。これが普遍性のない地域的な風習にすぎないことはわかっていたとしても、これがあるほうが人間関係は円滑にうまくいくわけです。これが礼楽ということで。礼楽の必要性が生じる要因を再び整理して言えば、世界を構成する要素が決して均質ではない。それぞれが偏っていて不完全であるほかない。理性的に統制された完全な人間など一人もいない。みんな異なる壊れ方、愚かさを持っている、そんな不完全な複数の存在がうまくやっていくためには、それぞれがお互いに迷信とか見られないような習俗が生まれてくる。
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礼楽とは形式が内容を決定――というかブラックボックス化――してしまう文字通りフォーマルな問題ですが、一度ブラックスボックス化されてしまうとその箱を開けるのは容易ではない。伝統と化してしまうということです。シャレのようですが、美術で言われるフォーマリズムの問題にしても結局のところ、古典主義以来の展示方法に規定されるようなジャンル画定の問題がほとんどだったわけで、そこで形式と呼ばれるところのものも、たかだかその展示方式に還元される以上のものでなく、意地悪く言ってしまえば、つまり、その議論の多くは展示マナーの問題に関わるものだったとさえいえる気がします。そしてますます、こういう傾向は強まってくる。いわばオブジェクト指向に支配されてきている。
いずれにせよプラグマティックに事を進めようということは、一度解明したことはもう済んだこととしてブラックボックス化する、その中に何かがあるかは問わない、そういう操作をもたらし、その方法は、わからないこと、不安を呼ぶような対象を、とりあえず鬼神という存在を呼び寄せることによって祭祀祭礼化してしまう古代中国以来の態度に近いわけです。わからないがゆえに答えは括弧に入れて、ひたすら日常的行動を合理化することでその不安を解消しようとする。そういう合理化を求めるゆえにアイコンあるいはキャラクターのように得体のしれない存在が要請される場面、不均質性の世界というのはますます拡がってきている。



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