禊の対極としての「腐敗」:腐敗研究と復讐研究の接点

ここで、禊の対極にある「腐敗」について説明しておきたい。長い注になるが、腐敗という「負のイメージ」に人類がどう向き合ってきたのかを考えたいからである。そして、それはまた、腐敗研究を20年以上つづけてきた私の業績と今回の復讐研究の接点でもあるからだ。

 英語で書いた拙著Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet, 2013)における注において、「“腐敗”はギリシャ語で “pthora”と表現される。“pthora”は腐食、腐敗を意味する。この派生語である “diaphthora”もまた、“corruption”の訳語として使われてきた。その動詞は “diaphtheirein”である。ここで「腐敗」と訳している概念に近いイメージはソクラテスにもアリストテレスにもあったことになる」と、英語で書いておいた。

 ここで、ソクラテスの裁判について考えてみよう。彼は二つの罪状で裁判にかけられた。裁判の日に陪審員を無作為に抽選する名簿から選ばれた501人の善良な市民が有罪としたのは、「不敬罪」(impiety)と「青少年堕落罪」(corrupting the young)であり、後者こそ「腐敗」の原義に関連した。有罪後、その刑罰について死刑が宣告され、毒草ヘムロックの劇薬を飲んで自ら処刑することを求められる。ソクラテスは逃亡することもできたが、死刑を受けいれる。この出来事については、西洋思想の始祖が無知と偏見に満ちた市民によってでっち上げられた罪状に直面させられるという茶番劇とみなしたり、民主主義が暴徒支配に陥って腐敗していくかを示す事例として使われたりしてきた。ここでは、ソクラテスの裁判は茶番ではなく、法的に正当であり、彼は有罪であったと主張する、ケンブリッジ大学の古典学者ポール・カートリッジ教授の『古代ギリシャ政治思想の実践』(Ancient Greek Political Thought in Practice, Cambridge University Press, 2012)を参考にしながら、ソクラテス裁判をみてみよう。

 紀元前399年、ソクラテスは主任検事メレトスによって二つの罪状で裁判にかけられる。ソクラテスは、①ポリスが認めている神々を正当に認めず、また他の新しい神々を導入することによって、法を犯した(罪状1)、②若者を堕落させることによっても法律を破った(罪状2)――という二つの罪で告訴され、提案された刑罰は「死」であった(正確な数字は不明だが、501人の陪審員のうち280人ほどが起訴通りに「有罪」と投票した模様で、おそらく全部で340人ほどが死刑判決に投票したと、カートリッジは書いている)。

 カートリッジは主として罪状1について論じている。だが、ここで注目したいのは罪状2のほうだ。「若者を堕落させる」ことが「若者を腐敗させる」というイメージで語られていたことに注目したいからである。カートリッジによれば、「若者を堕落させる」とは、ソクラテスが堕落した若者の教師であったことを示す婉曲的、暗示的な言い方であった。具体的には、裏切者として知られるアルキビアデスや、激しく反民主的な30人の暴君のリーダー、クリティアスをソクラテスが教えてきたからであった。

 この「堕落」とか「腐敗」をイメージさせるギリシャ語(pthora)は後にcorruptioとラテン語化される(Richard Mulgan, Aristotle on Legality and Corruption, 2012)。このマルガンによれば、プラトンもアリストテレスも、理想的な体制が賢明で高潔な支配者の結果としてもつ主要な特徴として、共通の利益のために統治されることを想定しおり、自分自身の利益のための統治をこの理想からの「逸脱」、すなわち「悪」とみなしていた。

 アリストテレスの場合には、とくに、国家統治の逸脱を防ぐために「法の支配」(rule of law)が重視されている。すべての法律は一般的であるため、ある程度公平であり、支配者の私利私欲を抑制することができるとみなし、全体として無法な支配よりも合法的な支配の方が優れていると考えている。特定のケースで決定を求められる一般人は、友情や憎しみの感情に流され、個人的な快楽や苦痛に目がくらむ可能性が高すぎると、『弁論術』(『レトリック』)のなかで、アリストテレスは指摘している。この議論は、「法とは欲望なき知性である」(『政治学』)という有名な警句に集約される。

 ここで重視されているのは、良い法律であれ悪い法律であれ、その範囲内で維持することは、利己的な支配者が自由に法律を無視することを許すよりも、より良く、より腐敗しにくいということだ。そこで、こうした「堕落」、「逸脱」といった「負のイメージ」をどのように法に位置づけるかが問題となる。こうした「罪」に対する刑罰も課題となる。

 殺人や窃盗といった犯罪の場合、犯人を特定し、応分の刑罰を科すことは比較的簡単に法制化できる。だが、ソクラテスの「青少年堕落罪」といった罪を法律の文言にとどめるのは簡単なことではない。この罪は、いわば「汚染」ないし「公害」のようなものであり、ソクラテスの教えに感化された若者が出現したことに対して、その「汚染源」たるソクラテスの罪を問おうとしている。その際、そうした若者を「汚染」された「被害者」としていいのかが難題だ。裏切者とされるアルキビアデスやクリティアスだけを被害者とするのか、それとも不特定多数を対象にできるのか。「堕落させた」、「汚染させた」といっても、その意味は何か。加えて、被害者の損害・被害を特定し、それに見合った刑罰を科すことができるのか。

 『法の経済分析』などで知られるリチャード・ポズナー著「報復と関連する刑罰の概念」(https://www.public.asu.edu/~gasweete/crj524/readings-supplemental/02-23%201980-Posner%20(retribution%20and%20related%20concepts%20of%20punishment).pdf)のなかで、ポズナーは、①古代ギリシャでは、殺人者が街を汚染し、彼を追放するか殺さなければ、市民はペストなどの災難に見舞われた、②ソフォクレスの戯曲『オイディプス』では、オイディプスが父親を殺害した結果、テーベが汚染されたことが描かれている――といった事例を紹介している。ギリシャの思想では、殺人やその他の悪事もまた、その人の子孫を汚染するとされていた。たとえば、アイスキュロスの『アガメムノン』では、アトレウスの悪事が彼の子孫を何世代にもわたって汚染することが理解されている。

 こうした「負のイメージ」が蔓延するなかで、そのマイナスにどう落とし前をつけてプラス・マイナス・ゼロの均等化をはかるのかは大問題であったと想像される。そこで、問題になったのが刑罰の問題であり、復讐や報復であった。「負の互酬性」を実現するための制度化が問われることになる。こうして、本書が注目する復讐は、私のかつての研究対象であった腐敗と出会ったのである。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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