閑話休題6 ベーシック・インカム議論の本質

希望の党が衆議院議員選挙の公約に「ベーシック・インカム」の導入を入れたことに賛意を表したい。今後、ベーシック・インカムについてのマスメディア報道が行われるものと思うが、その議論の皮相さが懸念される。そこで、ベーシック・インカムについて、その本質を語ってみよう。どうしてそんなことが可能かというと拙著『ロシア革命100年の教訓』(Kindle版)のなかで詳しく考察したことがあるからだ。

 

「第4章 ロシア革命の延長線上にあるもの」はつぎの3節からなっている。

1 ユートピア思想の系譜

2 ベーシック・インカムの思想

3 ユートピア思想の徹底を

 

ここでは、涙をのんで第2節の全文を紹介してみよう(縦書き用記述をそのまま横書きにして紹介する)。

 

***************************************

2 ベーシック・インカムの思想

 

近年、「ベーシック・インカム」(基本所得)と呼ばれる考え方が広がりをみせている。これもまた、経済的な格差の広がりの拡大と関係している。このベーシック・インカムの構想は一八世紀末に出現したと言われている。このころから一九世紀前半に賃金で支払いを受ける、つまり労働力を商品とする形態が広がりをみせるのであり、これに対応するなかでさまざまのベーシック・インカム構想が唱えられるようになるのだ。それは、労働や産業などの経済問題に焦点をあてたユートピア構想の出現に似たところがある。そこでここでは、山森亮著『ベーシック・インカム入門』を参考に、このベーシック・インカムの思想について考察したい(山森, 2009)。

 

ペインやスペンスの提案

たとえば、フランス革命やアメリカ独立戦争にも参加したイングランドの思想家、トマス・ペインは一七九六年に書いた『土地配分の正義』というパンフレットで、人間は二一歳になれば一五ポンドを、成人として生きてゆく元手として国から給付されるべきであると提唱した。このカネを元手に事業などに使えというわけだ(一括払いの給付をベーシック・キャピタルと呼ぶこともあるが、これも広義のベーシック・インカムに含めることができる)。さらに、五〇歳になると、年金が年一〇ポンド支給されるべきであるとする。これは、人間は生まれ落ちた以上、だれでも土地にアクセスする権利をもつとする自然権思想の影響のもとで浮上したと考えられる(山森, 2009, p. 152)。

 

一七九七年刊行のトマス・スペンス著『幼児の権利』のなかでは、土地は教区と呼ばれるイングランドの地域共同体の単位ごとに共有とされ、土地を居住・農耕などのために占有する場合には、地代を教区に支払う。この地代が唯一の税金で、この税収から公務員給与などの共同体経費を差し引き、残金は、「男だろうと女だろうと、結婚していようが独身だろうが、嫡出でも非嫡出子でも、生後一日でもひどく年老いていても」、年四回、成員間に平等に分配されなければならないと主張されている(同, p. 154)。定期的支払いというかたちのベーシック・インカムということになる。土地の「囲い込み」が広がり、開放耕地や共同牧草地へのアクセスを失った多くの人々が貧民化、彼らによる暴動や蜂起が社会問題化するなかで、スペンスの主張は支持を集めることになる。

 

一九世紀になると、ベルギーのジョゼフ・シャルリエが『自然法に基づき理性の説明によって先導される、社会問題の解決または人道主義的政体』(一八四八年)において、ベーシック・インカムを唱える(同, p. 164)。彼は、人類の共通財産である土地が私有化されていることを問題視し、その解決策として、地代を社会化しそれを財源として「保証された最低限」をすべての人に給付するよう求める。

 

労働観をめぐる対立

ベーシック・インカムは貧民対策として現金が各人に給付される。しかし、現金給付による貧民対策が受け入れられるには時間を要した。なぜなら国家が行なう貧民対策はあくまで救済に値する人々だけを対象とし、救済に値しない人は労働規律を徹底的に植えつけるためにワークハウスと呼ばれる収容施設に隔離されるようになるからだ。この際、救済に値すると考えられたのは、高齢者や障害者であり、労働可能な貧民(ワーキングプア)はその怠惰を批判された。「働かざる者、食うべからず」という労働観が色濃く影響しているのだ。

 

しかも、「劣等処遇の原則」といって、救済に値する貧民も値しない貧民も、福祉受給者は一般市民よりも劣等に処遇されるべきだとされた(同, p. 27)。ある人が貧しいのは社会の側に問題があるのではなく、本人に問題があるからだと決めつけられていたことになる。一八三四年の救貧法(ヘンリー八世の治世から貧民対策の法制化がスタートし、一五七二年の改革により、それまで行われていた健常者貧民への鞭打ちを廃止し、教区と都市に救貧監督官を設置、一五九七年の救貧法[Act for the Relief of the Poor]制定につながった。一六〇一年には、救貧行政を国家の所管とする改正が行われ、「エリザベス救貧法」と呼ばれた)の改正で、救済を受けるためには、懲罰的なワークハウスへの収容が義務づけられ、生活の場での救済は否定されてしまう。

 

このように、貧者に適用された実際の政策はできるだけ多くの人々を労働に駆り立てることで安い労働力を確保したい資本家層に有利なものであった。そこで支配的な労働観は、「飢餓への恐怖」があれば人を労働に駆り立てることができるというものであった。あるいはまた、「飢餓への恐怖」があってこそ危険な仕事や汚い仕事をする人を確保できるとみなした。これに対して、前述のシャルリエは、危険や汚れることを補償するだけの高い賃金が支払われればこうした仕事をする者はいるはずだと主張した。

 

いずれにしても、ベーシック・インカムは社会主義や共産主義の思想とは無関係なところから出現し、ジョン・スチュアート・ミルなどに影響をあたえるのである。ミルは『経済学原理』(第二版)でつぎのように指摘している(同, pp. 166-167)。

 

「生産物の分配の際には、まず第一に、労働のできる人にもできない人にも、ともに一定の最低限の生活資料だけはこれを割り当てる。……この主義は、共産主義とは違って、少なくとも理論上においては、現在の社会状態にそなわっている努力への動機をば、ただひとつも取り去るものではない」

 

国民配当、社会配当、負の所得税

もちろん、社会主義や共産主義の思想が広がるようになると、ベーシック・インカムの思想も影響を受ける。産業化の進展が労働や生活の人間らしさを奪っていくとして、産業化の負の側面を克服するためには中世の職人組合であるギルドの生産のあり方を称賛する「ギルド社会主義」という思潮が現われるのだ。これは、産業化自体を肯定的に考えた、フランスのサンシモン主義者、英国のフェビアン協会、電化の重要性を唱えたレーニンなどとはまったく異なる立場だった。

 

ギルド社会主義はA・J・ペンティを嚆矢とし、雑誌『新時代』の編集主幹A・R・オレイジなどによって主張された(山森, 2009, p. 169)。彼らは一九一五年に「全国ギルド連盟」を創設し、ギルドによる産業の自治、賃金奴隷制の廃止などが提唱された。こうした運動のなかから「社会クレジット」と呼ばれる思想が出てくる。C・H・ダグラスは「国民配当」と呼ばれるベーシック・インカムを『新時代』で展開する。このダグラスの主張はケインズを刺激し、ケンブリッジ大学でケインズグループ(「サーカス」)に属していた弟子、ジェイムズ・ミードはその著書のなかで、「社会配当」という一種の所得補助をすべての市民に供与するように提唱している(Mead, 1975, p. 88)。その代わり、失業給付、疾病給付、老齢年金、家族手当は廃止されるほか、個人所得税の経費控除も撤廃される。

 

こうして保険型の拠出金ではなく税による社会保障を求めるベーシック・インカムの構想が広く認知されるようになる。英国のジュリエット・ウィリアムズは『新しい社会契約』のなかで、国家と個人の契約というかたちに基づいて、この契約を結んだ者は男女を問わず、たとえば週二〇シリングの現金給付を受け取り、子ども一人あたり一〇シリングが給付されるべきであると提言する。

 

米国では、一九三八年制定の公正労働基準法によって連邦最低賃金が導入されたのを契機に、経済学者の間で最低賃金の是非や低所得者への所得保障が議論されるようになる。そのなかで、ミルトン・フリードマンは「負の所得税」を提言するようになる。個人所得税に認められた税額控除を利用して、所得税額から最低生活費相当分を控除し、もし所得税額が最低生活費を下回る場合には差額を給付するというのが負の所得税である。こうすることで、既存の社会保障制度に巣くう官僚を不要とすることができる。

 

近年、注目されるベーシック・インカム

グローバリゼーションと呼ばれる、情報技術に支えられたビジネスの地球規模の広がりのなかで、所得格差がより深刻化しており、それが近年、ベーシック・インカム思想を後押しするようになっている。たとえば、アンソニー・アトキンソンはその著書『二一世紀の不平等』のなかで、ベーシック・インカムに賛意を示している。「市民所得」と名づけられたそれは、社会保障料負担や個人所得税控除の廃止を前提に、市民所得が個人ごとに支払われる(年齢や障害/健康状態によって差をつけることもありうる)。「市民権」に基づくのではなく「参加」に基づく手当として給付される(Atkinson, 2015=2015, pp. 252-254)。この「参加」は社会貢献を意味し、勤労年齢者は、フルタイムまたはパートタイムの賃金雇用に就くか、自営業を営むこと、教育、研修、活発な職探し、乳幼児の自宅ケアや高齢者の介護、認められた協会での定期的なボランティア活動などに参加することが給付の条件となる。ベーシック・インカムが政治的に導入可能となるためのより現実的な提案と言えよう。

 

二〇一六年六月五日、スイスで全国民向けのベーシック・インカムを導入するための憲法改正を求める国民投票が実施された。勤労の有無にかかわらず無条件に毎月二五〇〇スイスフラン(約二五五五ドル)を、子どもには六二五スイスフランを給付するというベーシック・インカムが提案された。結果は、投票者の七六・九%が反対、二三・一%が賛成だった。否決されたとはいえ、ベーシック・インカムの考え方が国民投票を通じて多くの人々の関心につながったことは間違いない。フィンランドでは、二〇一六年三月、二〇一七~一八年の二年間、約一万人を対象にベーシック・インカムの実験を実施すべく二〇〇〇万ユーロを予算計上した。毎月五五〇ユーロを給付することが計画された。オランダやフランスでもベーシック・インカム導入への関心が高まっている。

 

問われる労働観

ここで問題になるが、過去からの伝統となっている労働観である。「働かざる者、食うべからず」という金言こそ、ベーシック・インカムへの抵抗となっている。だからこそ、アトキンソンは「参加型」という提案によって、この抵抗感を和らげ、ベーシック・インカムの一種である「市民所得」を現実に導入しやすいものに代えたわけである。

 

考えてみると、第二次世界大戦後になって世界中に広がった福祉国家の仕組みは「働かざる者、食うべからず」という金言に沿って設計されてきた(山森, 2009, p. 59)。働いている者は、賃金のなかから年金、健康保険、雇用保険などの社会保険の掛け金を支払い、高齢、病気、失業などの場合に保障を受ける。働いていない者については、働けるのに働いていない怠け者や、働けるのに働けないふりをする者から本当に働けない人を選別し、そうした者だけに生活保護などの所得保障をしてきたのである。しかし、働きたいけれども働けない者を働いていない者から選別するのは難しい。だからこそ、「働きたいけれども働けない者は食べてもよい」とするところにベーシック・インカムの構想が出現したのである。そして、この思想は、ユートピアに対する見方そのものの見直しを迫っている。

******************************************

 

 

これだけ紹介しても、ベーシック・インカム議論の本質には迫れない。仕方ないので3節部分の冒頭も紹介しよう。

 

******************************************

3 ユートピア思想の徹底を

ここで議論を整理するために、ユートピアについて考察している菊池理夫のユートピアの定義を紹介したい。「現実の社会に対する批判的意識から、それよりもすぐれていると思われ、かつ現実には存在しない諸制度を有する社会を、形式的には虚構的空間に設定して、全体的かつ具体的な像として提出する思考実験である」というのがそれである(菊池, 2013, p. 366)。この定義に従うと、ロシア革命もまた社会主義や共産主義のユートピアの実現のための運動であったと考えられる。

 

しかし、この社会主義や共産主義の思想に基づくユートピアには大きな問題点があった。それを指摘したのがアーレントである。ここで、百木漠の「アーレントのマルクス「誤読」をめぐる一考察:労働・政治・余暇」という興味深い論文に助けを借りよう。彼は、アーレントの仕事を、「アーレントは、「自由の王国」というマルクスの理想のうちに、西欧政治思想の伝統から継承された「労働と政治からの二重の解放」というユートピアを読み取り、このユートピアを強制的に実現しようとする試みが、全体主義支配というディストピアをもたらすと考えていた」と要約している(百木, 2014, p. 82)。この全体主義への危機意識こそアーレント思想の核心であり、「「労働と政治からの解放」というユートピア/ディストピアの傾向に抗い、「動物化」した近代人を生物的に「管理」する「無人支配」に代わって、人々の自律的な「活動」を政治のうちに取り戻すことこそが彼女の思想的課題であった」ということになる。

 

百木の難しい記述をわかりやすく言えば、マルクスは「労働からの解放」が階級や国家の廃棄につながり、「政治からの解放」をもたらすと考えていたということであり、アーレントは「労働からの解放」ではなく、人々の自律的な「活動」を通じて人々が政治にかかわるようにすることを希求したのである。なぜなら「労働からの解放」を無理やり行おうとするところに全体主義への傾斜が生じるからである。

 

労働を疑う

新約聖書のなかに、使徒パウロがテサロニケの信徒へ宛てた手紙がある。パウロの真正書簡であるかについては議論がある「手紙二」の第三章では、つぎのような記述がある。

 

「あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい」。

 

この教えは純化したかたちで修道士に受け継がれる。未開のヨーロッパを開拓するための修道士は引き籠って修行する場というよりも一種の工場である修道院で労働を神への奴隷的奉仕として行ったのである(関, 2016, pp. 22-23)。キリスト教は人間の生命を重視したから、その生命を維持するための労働が「聖なる義務」のように認識されるようになるのだ。

「Orare est laborare, laborare est orare」(オーラーレ・エスト・ラボーラーレ、ラボーラーレ・エスト・オーラーレ)、すなわち、「祈りは労働なり、労働は祈りなり」という言葉こそ、ベネディクト会のモットーであった。

 

修道士は「モナコス」と呼ばれていた。これはギリシャ語で「単独者」という意味で、そこで修道院はギリシャ語の「一人でいる(monástein)」から派生して「モナステリー」と呼ばれる。このモナコス、単独者としての修道士がヨーロッパの個人主義の原型であると、関曠野はのべている(同, p. 23)。どういう単独者としての個人であるのかというと、神の前に立つ裸の個人、徹底的に無力であって、神の恩寵を期待するしかない個人、そういう意味で社会資本も文化資本もすべて奪われた裸の個人としてあるという。しかも、無力さが強調され、無力であるがゆえに神の恩寵を願うしかない。ヨーロッパの個人主義の原型は徹底的に無力な個人なのだと関は説く。

 

問題は、近代ヨーロッパの個人主義がこの卑下に対する反逆という面をもつ点にある。そこから近代ヨーロッパの個人主義にみられる独特の攻撃性が出てくるのだ。個人は無力感に悩むがゆえに、一転して宇宙の支配者になろうとする。デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」では思考する個人は神にも似た世界の創造者になるという(関, 2016, p. 24)。こう考えると、労働にかかわる問題が実は、キリスト教そのものに深く関連するだけでなく、ヨーロッパの個人主義や、神にも似た立場からヨーロッパの思想を世界中に広めようとするその攻撃性にもかかわっていることがわかる。

 

こうした伝統のもとで、マルクスは『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評註)のなかで、つぎのように書いた(Marx, 1975=1954=1977, p. 28)。

 

「共産主義社会のより高度の段階で、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従事することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立がなくなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、諸個人の全面的な発展にともなって、また彼らの生産力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち――そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこうこう書くことができる――各人はその能力におうじて、各人はその必要に応じて!」

 

人工知能と労働

まさに、労働に対する「こだわり」を強く感じる文章である。そうであるならば、マルクスが近年の人工知能(artificial intelligence, AI)の急発展を知るとすれば、必ずや目を見張り、新たなる思索に取り組むだろう。

 

AIにかかわる問題は多岐にわたる。ここでまず、松尾豊著『人工知能は人間を超えるか』を参考にしながら、ごく簡単にAIについて解説しておきたい(松尾, 2015)。AIの定義にはさまざまあるが、松尾に倣って、ここでは、「人工的につくられた人間のような知能」ということにしておこう(同, p. 44)。近年のAIの発展はトロント大学のジェフリー・ヒントンが中心になって開発した新しい機械学習の方法「ディープラーニング」(深層学習)の寄与による。

 

学習の根幹は「分ける」処理にあり、ある事象を「分ける」ことができれば、ものごとの理解や判断につなげることが可能となる(同, p. 116)。換言すれば、「分ける」作業は「イエスかノーかで答える問題」を提起し、その問題への正解率を上げることが学習することを意味する。機械学習はコンピュータが大量のデータを処理しながら、この「分け方」を自動的に習得する。いったん「分け方」を習得すれば、それを使って未知のデータを「分ける」ことができる。機械学習によって「分け方」や「線の引き方」をコンピュータが自ら見つけることで、未知のものに対して判断・識別、そして予測することが可能となる。ただし、その「分け方」を決定づける対象の特徴を定量的に表す「特徴量」をどう設計するかが問題になる。機械学習の精度を上げるには、「どんな特徴量を入力するか」にかかっている。それは人間が頭を使って考えるしかなかったのだが、多階層のニューラルネットワークという、神経細胞の情報伝達を模倣した仕組みを使って、特徴量をコンピュータ自らつくり出すことができるようになったのだ。

 

松尾の控え目な結論はつぎのようなものである(松尾, 2015, p. 173)。

 

「ディープラーニングの登場は、少なくとも画像や音声という分野において、「データをもとに何を特徴表現すべきか」をコンピュータが自動的に獲得することができる可能性を示している。簡単な特徴量をコンピュータが自ら見つけ出し、それをもとに高次の特徴量を見つけ出す。その特徴量を使って表わされる概念を獲得し、その概念を使って知識を記述するという、人工知能の最大の難関に、ひとつの道が示されたのだ」

 

こうして既存のさまざまの職業がAIに取って代わられる可能性が現実味を帯びている。二〇一三年九月、オックスフォード大学のカール・ベネディクト・フレイとマケル・オズボーンは、米国における仕事の四七%はコンピュータ化による職業代替のリスクにさらされていると主張する論文を公表した(Frey & Osborne, 2013, p. 44)。バンクオブアメリカ・メリルリンチの資料によれば、二〇二五年までの十年間の毎年の創造的破壊の影響は一四兆~三三兆ドルにのぼり、そのなかには、製造業や医療のコスト削減(八兆~九兆ドル)やAIが可能にする知的作業の自動化を通じた雇用コスト削減(九兆ドル)、自動化された自動車や無人機を通じた効率上昇分(一・九兆ドル)などが含まれている(Robot Revolution, 2015, p. 1)。ロボットは二〇二五年までに製造業の仕事の四五%(現在は一〇%)を担うようになるだろう。ロボットとAI市場規模は二〇二〇年までに一五三〇億ドル(ロボット関連で八三〇億ドル、AI関連で七〇〇億ドル)にのぼると予想される。

 

脚光を浴びるベーシック・インカム

多くの労働が自動化されるようになれば、当然、賃労働への報酬や労働者の別の仕事への転職が問題になる(The Economist, June 25th, 2016)。ベーシック・インカムとして当面の生活を守れる所得給付を受け取れるようになれば、就業訓練や高等専門教育などを通じて、別の職業への転職が容易になる。すでに指摘したように、ベーシック・インカムの思想は「働かざる者、食うべからず」という労働観ではなく、「働きたいけれども働けない者は食べてもよい」という考え方に基づいている。

 

この主張に対しては、労働せずにベーシック・インカムとして現金給付を受ける輩が増えるとの懸念が表明されるだろう。いわゆる「フリーライダー」と呼ばれる「ただ乗り」をする連中への批判が込められている。既存の社会福祉制度では、生活保護を不正に受給する者がいるし、失業保険を悪用する者もいる。やってもいない医療を請求して、診療費を不正にせしめる医者も後を絶たない。年金保険料を払い込まない者も実に多い。こうした不正を防止したり、監視したりするために莫大なコストをかけている現状を考えると、こうしたコストをいっさいなくし、ベーシック・インカムに移行したほうがすっきりするとの見方もできる。若干のフリーライダーが生じても、現状よりはましなのではないかとも思える。

 

ベーシック・インカムを支持したくなる最大の理由は「家事労働」の取り扱いにかかわっている。ギリシャ時代、家事労働はまさに労働として認識されていた。生活の私的領域である家族(オイキア)の領域は、なにものかを奪われている(deprived)状態を意味する私生活(プライヴァシー)として意識されていたのである(Arendt, 1958=1994, p. 60)。これはある場合には、人間の能力のうちで最も高く、最も人間的な能力さえ奪われている状態を意味し、私的生活だけを送る人間や、奴隷のように公的領域に入ることを許されていない人間、あるいは野蛮人のように公的領域を樹立しようとさえしない人間は完全な人間ではないとみなされたのである。そうした私的領域での家事労働こそ「労働」であったのだ。産業資本主義の勃興によって賃労働が増加すると、この労働力を売って賃金を稼ぐ者こそ労働者ということになり、家事労働は不払いの労働として一段と蔑まれるようになる。

 

こうした歴史的背景があったために、育児で忙しく外へ働きに出られない者を差別したり、児童手当を受給しながら子育てに専念せざるをえないシングルマザーに冷たい視線が向けられたりしてきたわけだ。ただ、家事労働こそ本来の労働であるとみなせば、家事労働に従事する者がベーシック・インカムを取得するのは当然のこととなる。賃労働に従事し不払い労働をしていない者のなかには、不払い労働に従事するだけで賃労働につけない者が自分と同額のベーシック・インカムを受け取るようになると、不満をもつようになる人がいるかもしれない。そのとき、思い起こしてほしいのは、妻に育児を任せきりにしている自分は妻のりっぱな労働に対するフリーライダーではないのかということだ。

******************************************

 

ここまで紹介すれば、まだベーシック・インカム議論の本質が少しはおわかりいただけただろう。もっと知りたい人は拙著『ロシア革命100年の教訓』をお読みいただきたい。

 

 

(Visited 344 times, 1 visits today)

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

このページの先頭へ