教育DXを考える

 世界は教育においてもデジタル・トランスフォーメーション(DX)の導入に躍起になっている(DXについては、拙稿「デジタル・トランスフォーメーション(DX)は世界の潮流」[https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020052900005.html]を参照)。

 そんな思いを強くしたのは、ロシアにおいて進んでいる教育のDXぶりに驚いたからである。もちろん、日本でも2020年10月に、文部科学省は「教育のデジタル化に関する主な取組について」(https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouikusaisei/jikkoukaigi_wg/digital_tf/dai1/siryou2.pdf)、同年12月に、「文部科学省におけるデジタル化推進プラン(案)」(https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/content/000089227.pdf)を公表している。

 あるいは、2019年6月の段階で、目先の利く経済産業省は「「未来の教室」ビジョン」(https://www.meti.go.jp/shingikai/mono_info_service/mirai_kyoshitsu/pdf/20190625_report.pdf)を公表した。人工知能(AI)や動画、オンライン会話などのデジタル技術を活用した革新的な教育技法であるEdTech(エドテック)という面からの教育改革を提言した報告書だ。

 他方で、マイクロソフトのように、教育改革を絶好のビジネスチャンスと考えて、266ページにおよぶ「教育トランスフォーメーション」(https://tem365-my.sharepoint.com/:b:/g/personal/admin_tem365_org/ETVFP9PlWGtMlFB6n0ON6CYBj6K45elqoCOIt-I3yRghww?e=4byh8V)なる翻訳済み報告書を公開する会社もある。

 ここでは、計画経済のもとで、必ずしも実現できるかどうかにかかわらず、ともかく計画をたてるのに秀でていたロシアの教育DXと日本のそれを比較しながら、教育DXに伴う疑問点について考えてみたい。

 

  より包括的なロシアの教育DX

 まず、ロシアの教育DX計画は日本のそれに比べてより包括的だと言える。日本は場当たり的で、教育全般の改革につながる教育DXに及び腰な印象を与える。

 ロシアの場合、教育分野のDXとして、2021年から2030年までつぎの六つの大型プロジェクトが実施される(2021年7月に公表された資料[https://docs.edu.gov.ru/document/267a55edc9394c4fd7db31026f68f2dd/download/4030/]を参照)。

 ①「デジタル教育コンテンツ・ライブラリー」サービスの構築(教師の専門的な能力を向上させることができるサービス)

 ②児童向けサービス「生徒向けデジタルアシスタント」の構築(学習者の興味や能力に応じた個別の学習プランの構築)

 ③教育機関におけるマネジメントシステムの構築(ビッグデータ分析に基づく経営判断能力を、知的アルゴリズムを利用して強化することを目的としたシステム)

 ④児童生徒向けサービス「児童生徒のデジタルポートフォリオ」の構築(生徒の教育的軌跡、学業や個人的な成果を管理し、中等職業教育や高等教育プログラムへの応募のための書類一式を形成する機会を提供するサービス)

 ⑤「親のためのデジタルアシスタント」サービスの創設(子どもの教育活動を組織的に行う機会を総合的に創出するサービス)

 ⑥「教師のためのデジタルアシスタント」サービスの創設(AIの用いて宿題のチェックやワークプログラムのプランニングを自動化し、子どもたちの才能を見極め、育成し、支援するための効果的なシステムを簡素化して形成するとともに、教師の専門能力開発の質を向上させるサービス)

 さらに、「科学・高等教育のデジタルトランスフォーメーション戦略」(https://www.minobrnauki.gov.ru/upload/iblock/e16/dv6edzmr0og5dm57dtm0wyllr6uwtujw.pdf)という高度な教育についてのDX計画もある。Ⓐ「データハブ」、Ⓑ「DXアーキテクチャ」、Ⓒ「デジタルユニバーシティ」、Ⓓ「科学の単一サービスプラットフォーム」、Ⓔ「ソフトウェアと機器のマーケットプレイス」、Ⓕ「デジタル教育」、Ⓖ「サービスハブ」――という七つのプロジェクトで構成されている。Ⓐは科学や高等教育のためのデータ管理システムであり、Ⓓは研究と開発のためのサービスの単一のエコシステム(生態系)を意味している。Ⓕは学生、科学者、教育者のデジタル能力を高め、DXプロセスを管理する有能なチームを形成することを目的としたプロジェクトである。Ⓖはロシア教育科学省と大学のビジネスプロセスのDXのための統合されたサービスシステムとなる。

 

 日本のつけ焼刃な教育DX

 これに対して、日本の文部科学省はまず、「初等中等教育」と「高等教育」を分けている。「初等中等教育」については、「GIGAスクール構想」を前提に、教育ビッグデータ(①データの標準化、②学習履歴の利活用環境の整備、③データによる学習分析)の利活用による個別・最適な学びの実現がめざされている(GIGAスクール構想については拙稿「オンライン学習の陥穽」[https://webronza.asahi.com/politics/articles/2021062100011.html]を参照)。

 具体的には、下図のような内容がイメージされている。

 

(出所)https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouikusaisei/jikkoukaigi_wg/digital_tf/dai1/siryou2.pdf

 

 児童生徒、教師、保護者が教育DXにかかわる重要な主体とされている。しかし、児童生徒へのサポートという発想はあっても、教師や保護者へのサポートという発想がロシアの「デジタルアシスタント」という明瞭なサポート体制の構築と比べて希薄と指摘しなければならない。

 「高等教育」については、「デジタルを活用した大学・高専教育高度化プラン」が計画されている程度にとどまっている。ロシアの包括的な教育DXに比べると、あまりにも貧弱な構想にとどまっている。たぶん「未来の教室」といったコンセプトで教育部門を浸食しようとしている経産省と、教育部門の死守に躍起となっている文科省とのつばぜり合いが包括的な教育DXを阻んでいるのではないか。

 

 AI導入をめぐって

 教育DXはAIを教育現場に導入することでもある。ロシアの場合、前述した「教師のためのデジタルアシスタント」サービスにおいて、AIを利用して宿題のチェックなどを行うことが計画されている。具体的には、2024年までに「ペーパーレス」を学校教育の場で実現し、AIによる宿題の自動チェックを開始し、2030年までにすべての宿題の半分がこの方法でチェックされるようにすべきだとされている。

 これに対して日本では、「高等教育」において、「AI戦略2019」(https://www.kantei.go.jp/jp/singi/ai_senryaku/pdf/aistratagy2019.pdf)で、2025年度を目標年度として、①文理を問わず、すべての大学・高専生が初級レベルの能力を習得すること、 ②大学・高専生が、自らの専門分野への応用基礎力を習得することが掲げられている。さらに、 ⒶAIやチャットボットを活用したリアルタイムに質問可能な体制の構築、Ⓑ学習管理システムに蓄積された学習ログをAIで解析し、学生個人に最適化された教育(習熟度別学習)の実現、Ⓒ各種学生データを収集し、AIを活用した解析などに基づき、学生生活や健康管理、就職など一貫した支援の実現――などがめざされている。

 AIについては、このサイトで何度も指摘してきたように、その正確さにしてもプライバシー保護の観点からしても数多くの問題点がある(たとえば、「AI倫理」を問う(上):「気高い嘘」との対峙」[https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020042100004.html]などを参照)。ゆえに、「AI導入ありき」という安易な姿勢には疑問符が浮かぶ。AIを果敢に導入するにしても、どんな分野に適しているかについては試行錯誤が必要だ。

 

 教育DXへの疑問

 ここまで日本とロシアの教育DX改革の概要を説明してきた。これをもとに、いくつかの疑問点について指摘してみたい。なお、教育問題についての議論は各人が一家言をもつ身近な問題であるために、個人的体験に基づく素人の百家争鳴をもたらしがちだ。それでも、大学付属の中学・高校という教育実験の場で6年間、いわば「モルモット」役を果たしてきた筆者としては、その体験やその後の経験をもとに、あえて個人的な教育論を展開したいと思う。

 最初に疑問に思うのは、どんな教育をめざすのかという方向性の問題である。OECDのまとめた報告書(『21世紀の学校制度の構築法』[https://www.oecd-ilibrary.org/docserver/9789264300002-en.pdf?expires=1627187329&id=id&accname=guest&checksum=10FF858F5E178E08200FAD434DCAC4AD])には、つぎのような的確な指摘がなされている。

 「現行の学校は工業化時代に発明されたもので、標準化とコンプライアンスが一般的な規範であり、生徒を一括して教育し、教師を一度だけ訓練して一生を終えることが効果的かつ効率的であった時代のことだ。生徒が何を学ぶべきかを明示したカリキュラムは、ピラミッドの頂点で設計され、教材、教師教育、学習環境へと再解釈され、多くの場合、複数の政府機関を経て、個々の教師が教室で実践するまでに至った。このような構造は、工業的な仕事のモデルから受け継がれたもので、変化の速い世界での変化をあまりにも遅くしてしまう。我々の社会における変化は、現在の教育システムの構造的な対応能力をはるかに超えている。」

 だからこそ、抜本的な改革抜きに教育DXは成り立たないのである。たとえば、「プロジェクト・ベースド・ラーニング」と呼ばれる、学生が(多くの場合、自分で選んだ)一つのテーマについて、複数の学問分野を参照しながら深く掘り下げて学習するといった手法が全面的に取り入れられなければならないと、筆者は思う。

 

 HowとWhyを重視した教育

 OECDの報告書には、「人生の真のテストは、昨日学校で学んだことを覚えているかどうかではなく、今日予測できない問題を解決できるかどうかなのである」と記されている。ゆえに、既存の知識や情報を覚える価値は重要視されていない。

 筆者は拙著『なぜ「官僚」は腐敗するのか』のなかで、つぎのように書いたことがある。

 「第八に、公務員任用試験の全面的な改革をしなければなりません。まず倍率を二倍以下にする籤引きを導入すべきです。そのうえで、筆記試験の内容も変える必要があります。

 英語の疑問詞には、Who、What、When、Which、Where、Why、Howといったものがあります。このなかで、日本ではWho、What、When、Which、Whereばかりが重視されています。筆記試験で問われることと言えば、「だれがいつ、どこで、なにをしたか」ばかりではないか。試験に際して、簡単に採点できるこうした断片的な知識ばかりが重視されているのです。要するに、学力重視の教育はどうでもいいような事項を覚えさせるだけで、ものごとの本質に迫ろうとしていないのです。」

 多くの人々はワープロの普及によって、漢字を忘れるといった事態に直面しているはずだ。同じように、グーグル検索のような検索エンジンの利用によって、「だれがいつ、どこで、なにをしたか」といったことを記憶にとどめておく必要性も乏しくなっている。つまり、学習において重視されるべき「学び」の方向性がテクノロジーの進化によって大きな変貌を余儀なくされているのだ。

 そう考えると、検索しても簡単に答えを教えてくれそうもないHowとかWhyといった疑問に答えられる「回路」を鍛える重要性に気づく。その際、重要になるのが「書く」ことによる論点整理と、論理的思考回路ではないか。

 そんなことを強く印象づけてくれたのは、大田堯(たかし)である。彼が東京大学教育学部長のとき、その付属中学に通っていた筆者は彼の授業を受けた経験がある。教科書は、ミハイル・イリーン著『人間の歴史』であった。そして、読後感想文を書かされた。たぶん、この経験がいまの筆者を決定づけているように思う。

 その後、大学で教えるようになって行うようになったのは、ゼミ生に半年間、作文や論文を書かせることである。だれに読ませるかを意識したうえで、どのような内容を書けば、想定する読み手に関心をもってもらったり、自分の人となりを理解してもらったりできるかを考えさせるのである。具体的なエピソードを簡潔な文章で綴りながら、決められた字数制限のなかで最後まで読ませるのはそう簡単なことではない。いろいろと試行錯誤をしなければ、優れた作文や論文は書けないと信じている。

 おそらく今後10年たっても、作文や論文をAIが評価することはできないだろう。そこに書かれているのは「だれがいつ、どこで、なにをしたか」といったわかりやすい出来事だけではないからだ。

 今後のテクノロジーのさらなる進化を前提とすれば、HowやWhyを重視した教育に明確に舵を切る必要がある。だが、こうした抜本的な教育改革の議論は日本でもロシアでも避けられているように思えてならない。

 

 習熟度別学習の徹底

 東京大学教育学部付属中学3年生のとき、当時の校長で東大教育学部の学部長でもあった東(あずま)洋(ひろし)教授の授業を受ける機会もあった。そのとき、あまりに授業がつまらないので、高校受験を控えていた筆者は「内職」をしていた。それが見つかり、東に叱られたことがある。

 筆者に言わせれば、問題はくだらない授業しかできない教師の能力にあった。はっきり言えば、同じ学習をするのであれば、予備校講師の授業のほうがずっとおもしろかった。いまで言えば、いわゆる学力だけを重視するのであれば、優れた授業をしてくれる予備校講師のビデオを観ながら、どんどん習熟度を高めていくほうがずっと効率的ということになる。

 筆者の通った東京教育大学付属駒場高校では、日本史の授業では幕末だけを学んだ。地理の授業のうち、半年間は大塚久雄著『共同体の基礎理論』が教科書だった。そこには、「受験のための勉強は家や予備校ですればいい」という割り切った方針があったように思う。

 つまり、習熟度学習を徹底すれば、学校教育のあり方そのものを抜本的に改める必要が生まれる。現に筆者は、当時、東大大学院の教科書であった『共同体の基礎理論』を高校2年生のときに学んだのであり、数学が得意であれば、大学で学ぶことを高校で勉強してもよかった。そうしたことがテクノロジーの進化で可能となっている以上、前述の東のようなろくな授業もできない教師の話を聴くよりも、生徒の能力に合わせてどんどん先に進めるルートを用意することが望まれる。

 単なる学力にかかわる教育では、AIを活用することも容易に可能だろう。そうした分野においては、AIの欠点を理解しつつ、どんどんAIを導入して試してみればいい。試行錯誤を前提にして、何でもいいから「やってみなはれ」という姿勢が大切なのだ。どうせ、そんな学力は長い人生のなかではほとんど役に立たないのだから。

 他方で、前述した「プロジェクト・ベースド・ラーニング」のような教育を今後の教育の柱として位置づけてゆくべきだろう。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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