伊丹万作への共感:ウクライナ戦争を契機に考えてほしいこと

ぼくは、4月25日に『プーチン3.0』を上梓した。そのなかで、井上達夫著『世界正義論』を紹介しておいた。ここでは、まず、その話からしてみたい。

『世界正義論』の出だしは、パスカルの警句からはじまっている。「河一つが境界をなす正義とは滑稽な! ピレネー山脈の此方の真理は彼方で誤謬」というのがそれである。

ウクライナ戦争を契機にこの警句を反芻してみると、大陸において国境線が引かれている地域に住む人々と、日本のように海に囲まれた場所に住む人との間には、大きな認識のズレがあるように思えてくる。

ウクライナ戦争はしょせん、日本人にとっては外部での戦闘にすぎない。ゆえに、ウクライナ地域での戦争が直接、陸地を伝って自らの領土にまで達するかもしれない近隣諸国の住民が感じているロシアへの憤怒や脅威を理解するのは難しい。それは、「河一つが国境をなす正義」そのものへの考え方にも違いを生じさせることになるだろう。

 

島国日本の能天気さ

ぼくがいま感じているのは、島国日本の能天気さである。島国であるがために、「河一つが国境をなす正義」の理不尽さについて考えることもなく、為政者に面従腹背を装うだけで何とか生きてこられた多くの日本に住む人々は、いまでもなお、この理不尽さから人々を護るためにつくり出された仕組みである、主権国家の怖さや不条理に気づいていない。その結果として、主権国家が押しつける強制や情報操作に鈍感なままだ。主権国家と結託したマスメディアの情報を信じて、その低レベルの言説を鵜呑みにしている。

ぼくは最近、日本のテレビも新聞も見ないから、憶測でしかないが、ときどきちらっと接するこれらの情報はあまりにも捻じ曲げられている。主権国家の横暴という視点が欠如しているためだ。

海外の新聞や雑誌を読んでいると、「河一つが国境をなす正義」の不条理に気づきつつ、ウクライナ、ロシア、アメリカといった主権国家がいかに身勝手な行動をとっているかを教えてくれるものもある。そんな情報に励まされて、『プーチン3.0』を書いたのだが、その「あとがき」に、ぼくはつぎのように書いておいた。

 

「 最後に、本書を読んだ人に求めたいのは、この品格、志、矜持を鍛えるために、自分自身を磨き上げる努力を継続してほしいということである。内省力を鍛えるには、鏡に映る自分を反省することが必要になる。そのとき、自分自身の心の鏡をぴかぴかに磨き上げていなければ、本当の自分の姿を知ることはできない。そのためには、学ぶしかない。勉強するのだ。本を読むことだ。マヌケな専門家ばかりが登場するテレビをつけるくらいなら、とにかく勉強をしてほしい。学生はもちろんだが、 政治家や学者もマスメディア関係者も同じである。  

  たとえば、ぼくのゼミでは、柄谷行人著『世界史の構造』を必読書としてきた。The Structure of World Historyのほうがわかりやすいから、こ ちらも推奨してきた。あるいは、大澤真幸著『〈世界史〉の哲学』シリーズも必読だろう。

  国家を中心とする構造(政治家、官僚、学者、マスメディア)に抵抗したり、挑戦したりするには、まずは、一人一人の知見を広げることが必要だとつくづく思う。本書がそのための手助けになりえたとすれば、望外の喜びである。」

 

伊丹万作の批判

ぼくは4月27日、初対面の人から、伊丹万作著『戦争責任者の問題』を紹介してもらった。この著作を読んで、海に囲まれて能天気に過ごしてきた日本人の精神性が基本的にまったく変わっていないことに気づいた。第二次世界大戦で敗れた日本では、映画監督伊丹のいた映画界にあっても、戦争責任者を特定し、追放するといった議論がさかんに行われていた。当時、「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという」風潮が広がっていたのだが、伊丹はこうした当時の世相に対して、辛辣な批判をこの本のなかで書いている。

ここで、彼の批判を抜き出してみよう。

 

「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。」

 

「そしてだまされるものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧政を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒瀆、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。」

 

「「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追及ということもむろん重要であるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」

 

おそらく、「批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」という指摘は、いま現在の日本全体にもあてはまっているように思われる。だからこそ、いまでもマスメディアの情報操作に惑わされて、ウクライナ戦争の本質に迫れない人ばかりが目立つのだ。

だからこそ、「だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始める」ことが21世紀のいまもなお求められている、とつくづく思う。ゆえに、「勉強しろ」と『プーチン3.0』にも書いておいたわけだ。

最後に、ウクライナのゼレンスキー大統領にだまされていないかも問うてほしい。「ちきゅう座」のサイトにアップしておいた「『プーチン3.0』から『ウクライナ3.0』へ」も読んでみてほしい。きっと、「「だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力」が足りないことに気づくだろう。

だからこそ、**君よ。勉強をつづける必要があるのだ。

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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