柄谷行人著『力と交換様式』の衝撃

ようやく柄谷行人著『力と交換様式』を読み終えた。なぜ急いで読んだかというと、11月に刊行される予定の拙著『復讐としてのウクライナ戦争』(仮題)の内容修正のためであった。実際には、些細な点を二つ、三つ、この本を参考に修正したが、あとはそのままにすることにした。大幅変更するには、時間がないし、大幅変更するとして、どう直したらいいかまでは短期間に考えられないからである。

 

必読書としての『力と交換様式』

たぶん、この本は柄谷の思想の本当の意味での集大成になるかもしれない。逆に言えば、50年近く彼の言説につき合ってきた読者としては、その重みを感じないわけにはゆかない。

大学のゼミで、『世界史の構造』を必読書に指定してきた私としては、その後の『帝国の構造』などの仕事が一本の線で結ばれたことで、柄谷による整理がより明確かつ確固たるものになったことを喜ばしく思う。同時に、こうした視線を早くから知ることができれば、わたしたちが経験したような脱線や逡巡をパスして、もっと時間を合理的に使えるようになるのではないかと思う。その意味で、心ある若者は『力と交換様式』を必ず読まなければならないと思う。君たちが教え込まれている思想の多くは、まったく誤った解釈に基づいている可能性が高いからだ。

 

科学批判に賛同

『力と交換様式』において、わたしがラインマーカーを引いたところはたくさんある。まず、392頁のつぎの箇所を紹介したい。

「たとえば、第一部予備的考察で述べたように、近世において、コペルニクスの地動説を支持して弾圧されたような科学者・哲学者らがこぞって、磁力を魔術として斥けた。つまりそのとき、磁力が現にあるのに、それを認めないことが〝科学的〟だと考えられたのである。それと同様に、今日の〝科学的〟な学者は、国家、資本、ネーションに存する〝力〟を斥ける。つまり、〝力〟が働いているのにもかかわらず、あたかもそれがないかのように、その働きの結果だけを数学的に考察するのが〝科学的〟だと考えられているのである。」

実は、わたしが「権力」や「腐敗」について何十年も研究してきた理由は、まさに数学的に計測するのが難しい「力」について考える必要性を感じていたことに由来する。そもそも、定義が困難な権力や腐敗を分析することで、世界全体の覇権をめぐる国際関係を省察するというねらいがあったことになる。

そう考えてきたわたしにとって、「物神化」と「物象化」の問題が長く気にかかる問題としてあった。今回、『力と交換様式』を読んで、この問題が氷解した。柄谷はつぎのように書いている(325頁)。

「実際、後に、マルクス主義者ルカーチは、『資本論』を称賛しながら、「物神」をまったく無視して「物象化」を強調した。そして、一般に、それが科学的な態度だとみなされた。しかし、それを何と呼ぼうと、貨幣物神や資本物神のような「力」があることは否定できないのだ。それを否認することで〝科学的〟になるわけではない。たとえば、資本主義経済を数学的に扱ったところで、それが科学的な認識になるのではない。」

 

「嘘を教え込まされる咎」

ここで強く感じるのは、「嘘を教え込まされる咎」という問題だ。わたしの場合、幸か不幸か、柄谷に導かれていたために、マルクス自身の重要性は40年以上前から知っていたが、マルクス主義は否定してきた。もっと言えば、拒絶の対象、唾棄すべきものとしてあったと言える。その証拠として、慶應義塾大学経済学部で必修であった「マルクス主義経済学」なる授業を拒絶し、単位をもらえなかったことがある。必修だから、そのままでは卒業できないので、何とか単位は取得したが、わたしはマルクス主義経済学をまったく信じていなかった、大学生のころから。

むしろ、新鮮だったのは一橋大学大学院経済学研究科の授業で、マルクスの『資本論』を精読したとき、マルクスが思い悩んでいた中身のほんの一部を垣間見たように感じたことだった。要するに、『資本論』をより深く読み解くだけの能力をもった「専門家」がほとんどまったくいないことを痛感したのである。

だからこそ、夏目漱石を読み解く柄谷の読解力に驚嘆していたわたしは、柄谷の書く作品を信ずるようになったのだ。こうして、わたしは柄谷の優れた読解力に依存する生活・人生をもう40年以上おくってきたことになる。

他方で、「嘘」を教え込まされた学生として、わたしは教育を恨まざるをえない。あるいは、真顔で「嘘」を教え込んでいた教師に軽蔑と怨嗟の感情をもたざるをえない。「バカ野郎」と叫びたくなる。

多少の時間のロスはやむをえないかもしれない。だが、マルクスの『資本論』を誤読したままマルクス主義経済学などといったものに固執しつづけるのは無駄ではなかろうか。こうした「いらぬ迷路」に迷い込まないようにするためにも、『力と交換様式』は必読だろう。

 

『資本論』の読み方

柄谷は『資本論』について、つぎのようにのべている(268頁)。

「したがって、この書は、商品物神が貨幣物神、さらに、資本物神に転化した過程、さらに株式資本において資本そのものが商品に転化するにいたった全過程を記述しようとしたものだ、ということができる。その意味で、『資本論』は、ヘーゲルの『論理学』にもとづいて、精神=物神の発展をとらえる仕事であった。そして、その最後の段階であらわれる株式資本とは、資本そのものが商品として売買されるようになったことを意味する。」

まとめとしてつぎのように指摘している(269頁)。

「かくして、『資本論』が、商品物神から貨幣物神、資本物神に発展するとともに、株式資本において再び商品物神としてあらわれる過程を描いた作品だということは明白である。したがって、第一巻の冒頭で、彼が述べた「膨大な商品の集積」の中に、すでに資本が存在することを見逃すなら、『資本論』を読んだことにはならない。」

ここでいう物神について比較的わかりやすい説明として語られているのはつぎの部分である(270頁)。

「あらためていうと、物神(フェティシュ)とは、人と人の交換において生じる、霊的な「力」である。実は、マルクスは、『資本論』第一巻でそれについて述べた後、物神という言葉を二度と使わなかった。しかし、事実上、さまざまなかたちで、霊的な「力」を見ようとしたのである。たとえば、彼はそれを「信用」に見いだした。信用とは、契約・取引と決済との間に時間的乖離があるときに不可欠となる、当事者間の信頼である。だが、それはたんなる信頼ではなく、人を強いる観念的な力であり、その意味で物神的である。」

 

「物語」として思想家を読み解く

『力と交換様式』を読んでいて痛感するのは、「物語」(narrative)として思想家を読み解くことの重要性だ。この「物語」の重要性については、いまわたしが書いている『君たちはどうだまれてきたのか』のなかで、つぎのように書いておいた(縦書きを横に印字)。

「 「物語」の欠如

 「情報社会の問題解決」をわかりやすく理解してもらうには、本当は「物語」を重視しなければならない。これは経済学を学んだ筆者の受けた偽らざる述懐である。経済学を理解するには、経済学史をしっかりと学ばなければならない。ところが、日本では、この経済学史がまったく軽視されてきた。要するに、人間が経済について何を悩み、どのように解決してきたかという歴史を物語ってくれるはずの経済学史を知らないために、いま現在の経済学の問題点もさっぱりわからないという悲惨な状況に陥ってしまうのだ。

 それは、法学でも、政治学でも、社会学でも同じだろう。学問の歴史を物語として語ってもらわなければ、過去の人類の苦悶がまったく理解されないままになってしまう。経済学で言えば、単なる紙切れが紙幣としてありがたがられるようになった、近代化によって生み出された制度を知るには、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』を読むことが必要だと、ぼくはつくづくと実感している。

 ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー著『金(かね)と魔術:「ファウスト」と近代経済』を読めば、一六世紀にヨーロッパで広がったファウスト伝説において、ファウストが「黒い魔術」たる錬金術を熟知していたことがわかる。あるいは、ウィリアム・シェイクスピアは、「アテネのタイモン」において、金貨さえあれば何でもできるという金貨の魔術をタイモンに呪わせている。

 ゲーテはこのファウスト伝説をもとに、六〇年ほどをかけて一九世紀に『ファウスト』を書き上げた。実に興味深いのは悪魔の霊、メフィストテレスと契約したファウストは地下に埋蔵されている金銀を「担保」に新しい紙幣を発行させることに成功したという内容だ。そう、兌換紙幣の発行によって「見えない金」としての紙幣をつくるという、近代国家が行った錬金術の正体を暴き出したのである。

 ぼくはこうした物語を教えてくれた教師に大学でも大学院でも出会うことができなかった。その結果、ずいぶんと回り道をしてしまったように思う。

 情報をめぐっては、たくさんの物語がある。クロード・シャノンが一九四八年に公表した論文「コミュニケーションの数学的理論」(http://people.math.harvard.edu/~ctm/home/text/others/shannon/entropy/entropy.pdf)は情報理論の基礎を築いたが、そのアプローチは情報の送り手や受け手、その意味や価値といった定性的側面を捨象したものにすぎない。定性的な側面をめぐっては「情報の語用論(記号が使用者あるいは解釈者に対してもつ関係の研究)」が必要となる。そこにもまた数々の物語がある。つまり、こうした物語抜きで「情報学」を理解することはできないのだ。

 こんな日本のひどい教育環境のなかで、高校の必須科目「情報Ⅰ」では、情報を「人にとって意味や価値のあるもの」と教える。ただ、そう定義して覚え込ませるだけだ。ゆえに、君たちはただ情報を「人にとって意味や価値のあるもの」とだけ暗記する。

 だが、情報を人間の物語のなかで位置づけて考えると、たしかに情報が「人にとって意味や価値のあるもの」という側面をもつ時代もあったが、二一世紀に入って、新たな意味の変容が生じていることに気づかなければならない。はっきりいえば、二一世紀のいま、情報をこのように教えるとすれば、それは二〇世紀の時代遅れの教科書ということになるだろう。」

同じように、思想家の思想を理解するには、当時の時代背景をしっかりと学ばなければならない。エンゲルスの思想にしても、マルクスの思想にしても、今回、『力と交換様式』を読んではじめて知ることがたくさんあった。柄谷自身、従前の見方をあらためているのだから、わたしたちが不明を恥じるにはおよばない。ただ、政治的な運動・活動に直結するようなイデオロギーのような問題については、長い時間をかけてよくよく考えなければならないとあらためて思う。

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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