近藤大介著『ほんとうの中国:日本人が知らない思考と行動原理』

最近、読んだ近藤大介著『ほんとうの中国:日本人が知らない思考と行動原理』について、いつものようにその内容をメモ書きとして残したい。内容は、目からうろこ、刮目すべきものである。

 

61頁

それでおのずと、騙した者をそしるより騙された者を嗤う社会が形成された。

中国では「人を害する心をもってはならないが、人を警戒する心もなくしてはならない」(害人之心不可有、防人之心不可無)と説く。だが、重要なのはあくまで後半部分だ。

横断歩道の通行スローガンに、「一に停まって、二に周囲を看て、三に通過する」(一停二看三通過)という言葉がある。中国の親たちは、このスローガンを人生訓として子供に教えている。「世の中を信用せず、万事慎重に行動せよ」ということだ。

 

67頁

中国人の「原風景」が、「中国大陸に大の字になって踏み立つ姿」であると前述した。そこに在るのは天と地と自分だけである。孤独で寂しく、不安げな世界だ。

それでも、踏み立って生き続けていかねばならない。そのためには、当然ながら自己が強くある必要がある。

中国語で、一人称は「我」(ウォー)と言う。「われ」である。

「我」という漢字は「のこぎり」の模様をかたどっている。ギザギザした刃が付いた刃物の形だ。

なぜのこぎりを表す字が「われ」となったのか? 単なる「借字」ではないかという説

68頁

もあり、よく分かっていない。

私見では、「中国大陸に大の字になって踏み立つ」際に、のこぎり(刃物)が必要不可欠だったからではないだろうか?「鬼に金棒」という言葉があるが、本当に金棒を持った鬼のように強くあらねば、中国大陸では生き延びていけないのだ。

 

76頁

中国人は「我」からすべてが始まると述べた。すなわち、強烈な自己主張社会である。

とかく他人に気遣うことが多い日本人からすれば、そんなに自分勝手にyっていては、何事にも壁にぶち当たってしまうだろうと訝る。日本で身勝手な人間は、周囲から相手にされなくなるからだ。

ところが中国では、まったく平気である。村八分にされたり、イジメに遭ったりすることもない。

なぜか? それは、誰もが「我」中心だからだ。

「我」中心ということは、言い換えれば他人に無関心ということでもある。

誰もが「我」中心で生活していても、社会は回っていく――これは私が中国生活で学ん

77頁

だ「三大発見」の一つだった。ちなみに残り二つは、言論の自由がない社会でも人々は愉しく生きていける、アメリカ軍が駐留していなくても平和な国家は保てる

 

109 頁

中国にはこんな格言がある。「中国人は一人なら龍(ロン)だが、三人集まると虫(チョン)になる」(一介中国人是条龍、三介中国人是条虫)――日本語の「三人集まれば文殊の知恵」とは真逆の表現だ。

 

115頁

中国に留学に入ったり、駐在したりすると、すぐに覚える中国語の言い回しに、「上有政策、下有対策」という言葉がある。「上に政策あれば、下に対策あり」という意味だ。

 

143頁

中国では、古代から影響力を持っている儒教と仏教と道教の違いについて、「水のたとえ」を用いて教えることがある。

コップに入った水を指差して、それぞれにこう説く。

儒者「この水をまず年長者に飲ませなさい」

僧侶「水を飲みたいという煩悩を捨てなさい」

導士「水はどんな容器にも対応することを知りなさい」

次に、コップの水が半分に減ってしまったとする。その時には、それぞれこう説く。

儒者「努力すれば水を増やすことができる」

僧侶「祈りを続ければ水は増えていくだろう」

道士「水とは本来蒸発していくものだ」

 

186頁

中国初の民主的選挙

だが、前出の中国の関係者が述べた「中国は民主を試したことがない」との指摘は、誤っている。歴史上、少なくとも二回試しているからだ。

一回目は、西周の時代である。西周の十代目のれい王は暴虐無動で、社会が荒れすさんだため、西戎(西部の異民族)の侵入を許した。しまいに

187頁

は、国都の貴族たちも反乱を起こし、王宮かられい王を追放した。

興味深いのはその後だ。大臣だった召穆公と周定公が、話し合いによって共同で行政を司るシステムで国家を統治することにしたのだ。「共に和す」ということで、元号は「共和」とした。

「共和」は十四年続いた。共和十四年に、亡命中のれい王が死去し、周の十一代めの宣王が即位。西周は再び専制国家に戻った。

二回目は、ごく最近のことだ。二〇一一年九月二十一日、広東省陸豊市にある烏かんという村で、大規模なデモが発生した。それは不動産開発ブームの気運に乗って、村民たちの土地が、村民代表(村長)らの一存で勝手に売り渡されていくことに抗議したものだった。

当時の広東省書記(省トップ)は、改革派筆頭の汪洋氏。温家宝―汪洋ラインは、それまで研究してきた「民主選挙」を烏かん村で試行することにした。

二〇一二年二月十一日、烏かん村で民主的に村民代表(村長)と五人の村委員(村会議員)を選ぶ選挙が実施された。中国で初めて民主的選挙が行われるというので、西側諸国のメディアの中国特派員たちも、広東省の寒村に、どっと取材に駆けつけた。

ところが、翌年に習近平政権が発足すると、前述のように「民主の火」は掻き消された。いまでは、共産党政権下で民主的な村長選挙を実施したことなど、すっかり忘れ去ら

188頁

れている。

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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