井筒俊彦著『コーランを読む』を再読する
終活の一環で、いま自室にある本を整理している。そうした作業をしていて気づくのは、ソ連や社会主義などを扱った日本語や英語、ロシア語で書かれた書物の「古さ」である。こうしたものはすべて処分した。
これに対して、哲学や小説などの本については、まあ、死ぬまでに、もしかしたらもう一度くらいは手に取るかもしれないと思い、とりあえず、残すことにした。そうした取捨選択のなかで、井筒俊彦著『コーランを読む』が目に留まった。
私は、自分の本にいつ購入していつ読んだのか、といった情報を書き入れたりしない。ラインマーカーを引いたり、メモ書きをしたりすることはあっても、あまり自分の過去を顧みるような行為自体をしない。そんなわけで、この本をいつ読んだのか、まったく失念していた。
若者に勧めたい一冊
時節柄、興味を惹かれたので再読することにした。本日、読了して感じるのは、若者にぜひ読んでほしいということだ。「コーラン」という書物を何の知識ももち合わせない者が読んでも、おそらくまったく理解できないだろう。
リアリスティックな内容のものであれば、表面だけを読むだけで、何となくわかった気になる。だが、井筒がいうように、イマジネイティブであったり、ナラティブであったりする階層をもつ内容である場合、字面をながめるだけでは決してその内容を理解することはできない。
その意味で、イスラーム文化研究において、日本の生んだもっとも優れた先達である井筒による解説は、優れた解釈学として実に興味深い。
言語のエキスパート
私の井筒との邂逅は、彼の書いた『ロシア的人間』を読んだときだった。そう、井筒は語学の天才であり、博覧強記の人なのだ。イスラーム文化にかかわる著作が多いが、その実像は測り知れない。
その意味で、『コーランを読む』のなかでときどき語られているセム人(セム系言語を使う人)についての話は西洋文化と東洋文化との差異に関心のある私にとって、いろいろと考えさせる指摘であった。
メモ
そこで、将来、引用するかもしれない部分をメモ書きしておこう。
115頁
「以上のように考えてみますと、単純素朴で、一見子供っぽく思われかねない『コーラン』の人間創造説話が、実は、一つの重大な言語哲学的思想の萌芽を含んでいることがわかります。ものに名前があるということは、ものが存在するということ――それがこの思想の中心軸です。いかなるものも、名づけられてはじめて存在する。名のないものは存在しないのと同じ。『コーラン』だけの考え方ではありません。例えば古代バビロンの宇宙創造神話のなかでも、天地創造以前というかわりに「天地がまだ名づけられていなかった頃」という表現が使われています。「天地がまだ名づけられていなかった頃」、すなわち天地が創造される以前ということなのです。明らかに、「名づけられる¥ということ「創造」ということが同義的になっている。セム人の世界では一般にそうです。」
117頁
「運命的にすべてを決定し、すべてを究極的には破壊してしまう「時」です。イスラーム以前のアラブだけではなくて、古
118頁
代セム人一般の民衆的信仰がそうだったのです。
ところが、これに対してメソポタミアにセム人が侵入してくる以前に、シュメール(スメル)人と呼ばれる一民族が強大な文化を作っておりました。世にいう、古代メソポタミアのシュメール文化です。このシュメール文化を特徴づける一つの重要な思想は、今お話した機械的運命主義に反対だったことです。つまり、運命ですべてがはじめから決定されているのではなくて、神の創造的な力というものがある。神のこの創造的エネルギーが凝集し、コトバになって発現すると、それが何でも自由に動かせる、存在しないものも存在にもたらせるし、ある方向に決まっているように見えるものを、すきな方向に変えることもできる、という考え方です。だから、シュメール人のあいだでは、コトバの力というものが非常に大事になってくる。
もともと、こうした考え方はセム的ではないのですが、それがアブラハムを通じてイスラエルに入ってくる。なんだか大変大ざっぱな言い方で恐縮ですが、大筋をいえばそんなところだと思います。そうすると、いままでとぜんぜん違う、異質の、非セム的な考えがセム人の世界に入ってくるわけです。運命が事物事象の動向を機械的に決めているのではなくて、宇宙は神のコトバによって自由に動かされる(ママ)のものだ、という考え方です。神の創造性、しかもそれがコトバを通じて発揮される。この思想をアラブのあいだで代表しているのが預言者ムハンマド、それを表面に押し出しているの
119頁
が『コーラン』なのです。つまり、運命ではなくて神の意志、自由。ものが創造され、創造されたものがどんなふうに存在し、進展していくか、すべて神の意志によるものであって、運命ではない。ここで新しい宗教的世界が開けるのです。イスラームは、だから、この点ではアブラハム的な宗教系統に属します。」
130頁
「今、私は『コーラン』は神讃美の理解の仕方において、著しくドストエフスキー的だと申しました。特に、人間が讃美を拒否できる世界であるという点で。けれど、『コーラン』にはドストエフスキーと違うところが一つあります。そういうことかといいますと、『コーラン』の場合には、地獄に落ちた連中は、もはや神を讃美することができないということです。奈落の底から神を讃美する。悪人が、極悪非道の人間が、地獄のまっただなかに落ちても、炎々たる劫火の中からまだ神に向かって手をさし伸べ、神を讃美するという、実にしつこい讃美ですね。ドストエフスキー的人間の、それが特徴です。ところが、『コーラン』にはそういうことはない。地獄に落ちた人間はもうおしまいです。ぜんぜん讃美する手はなくなってしまう。天国に行ったものだけが、心ゆくまで神を讃美する。地獄に落ちた者は神を讃美できない。それほどまでに徹底的に呪われてしまうのです。」
133頁
「奇蹟を求める心。キリスト教の方はご存じでしょう。「邪しまなる世は徴(しるし)を求む」とイエス・キリストが嘆いているのを。奇蹟を見なければ、信じられない。奇蹟を見せてくれれば信じよう、という。極めてセム的なメンタリティです。」
166頁
「いちばん典型的な例として『パガヴァッド・ギーター』を取り上げてみましょう。「ヒンズー教の聖典」などといわれて、インドのヒンズー教の発展史上、絶大な影響力を今日に至るまで保ち続けてきた聖典です。この聖典の代表する宗教思想では、絶対究極の実在はブラフマンのような非人格的な絶対者ではなくて、生ける神、人格的神であり、従って、そのような神にたいする帰依・信仰に基づくこの宗教は、キリスト教と肩をならべられるような一神教です。簡単に言えば、それは、存在界の原点に人格的な唯一の神がいて、その神が天地万有を創造し、自分の創った世界を支配するという考え方であって、聖書とほとんど同じだし、『コーラン』ともその点では同じです。だから、インドにヨーロッパ人がやってきたときに、もちろんキリスト教の宣教師、ミッショナリーがいっぱい入ってきた。その人たちを無上に感激させたのは、この『パガヴァッド・ギーター』だったのです。」
206頁
「それは不可視の世界、どこか向うの世界から異常な事態の情報が流れてくるということなのです、夢を通じて。アラブだけではなく、ヘブライ人も、アッシリア人も、バビロニア人も、古代セム人はみな共通してそう信じていました。だから夢は非常に大事だったのですね。不可視の世界の情報、不可視界からのコミュニケーションなのですから。『旧約聖書』をお読みなると、古代イスラエルの予言者たちにおいて、夢がいかに大事な働きをしているかがよくおわかりになると思います。」



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