民主主義の虚妄を議論せよ

民主主義の虚妄を議論せよ

死を意識する年齢になるにつれて、いまの政治制度の数多くの欠陥に呆然とする機会が増えている。だれしもが民主主義の重要性は知っているのかもしれないが、その欠陥には目を瞑り、民主主義の虚妄に真正面から立ち向かう人があまりにも少ないように思える。

今週号のThe Economistの冒頭の社説には、「投票を権力に転換するシステムはどれも欠陥をもっている」と指摘されている。米国では、都市部と農村部との投票権のアンバランスが問題視されている。もちろん、この問題はいまの日本でも同じであり、選挙法改正において、「投票格差」を4倍以内に抑えるといった議論そのものが笑止千万であって、1票の重みは基本的に同じでなければならない。

日本においては、政治をビジネス化している、世襲の政治屋がごろごろいる。その結果、司法試験に合格しただけの弁護士のようなわけのわからぬ連中がやたらに立候補することになる。ふだん、離婚や相続などのカネの問題を生業にしている者が政治を語ること自体、きわめて胡散臭いと指摘しなければならない。

こんな日本だからこそ、Dishonest Abe(不誠実な安倍晋三)のような首相がいまでも平然と首相の座にとどまっているのであろう。一応、民主主義的な手続きを経て首相に選ばれたかにみえる安倍だがその実、有権者の過半数の支持を得たわけでもない。こんな輩だからこそ、国民が豪雨の危機にあるときでも、酒盛りをしていられるのだろう。まさに、Dishonestの極みであり、人間としても最低の部類に分類できるだろう。

トランプ米大統領も同じ穴の貉である。プーチンもそうだ。いずれも、民主的手続きによって国のトップに就いたのかもしれないが、みな民主主義の虚妄のうえに生まれた徒花にすぎない。

 

拙著『官僚の世界史』

わたしは拙著『官僚の世界史』のなかで、民主主義について考えたことがある。そこでは、つぎのように指摘しておいた。

 

「主体=私」、「主権=公」との間を「社会契約」で結びつけるのは民主主義という手続きである。だが、民主主義そのものを検討する前に、本当はそうした契約を可能とする「社会」に目を向ける必要がある。西洋の共同体では、成員の同質性を前提とし、異質な者を排除するところに成り立つ民主主義が発展したが、それは同質性を前提とする点で全体主義と対立していない。フーコーのいう「牧人型権力」においては、すべての者が告白せねばならず、そのことによって自由な主体が生まれる。つまり、民主主義は牧人型権力に由来すると考えられる。これに対して、自由主義は、いわば、告白しない自由にかかわっているのであって、それはキリスト教からは決して出現しない(柄谷, 1993, p. 109)。

重要なことは、キリスト教的共同体にあっては、個人がことごとく救いを求めることが不可欠の条件となっており、ゆえに、牧人型権力において牧人の権力はすべての個人に、彼が救われるために全力を尽くすことを強制する権威を備えていることになる点である。個としての人間は最初からある種の共同体に内属する者として想定され、その共同体の諸制度がもたらす規制のなかであくまで受動的に獲得する自己を「主体=私」と誤解するなかで、その「私」にあてはまることが万人にも妥当すると「独我論」に陥っている。民主主義はこの独我論に基づく同質性を前提とした制度にすぎないのである。独我論に陥っているからこそ、イスラーム教を受容する、民主主義的でない別の共同体に対してきわめて専横的な態度がとれるのだ。

 

もう一つ別の論点として指摘したのは、つぎのことである。

 

意識をもつ「私」が意識以外にも、無意識、身体などからなる「自分」の一部しか代表していないのであれば、その「私」が選挙という形式で「社会契約」しても、それはそもそも「自分」全体を反映したものではない。ましてや、意識をもつ「私」がそもそも「分人」に分かれているのであれば、複数の「分人」を統合する「私」を想定すること自体、困難である。民主主義は、意識をもつ「私」という存在を絶対化し、その「私」が自由意志に従って選択できるという虚妄のうえに成り立っているのだ。「主体=私」を疑う必要性を強調してきた本書においては、こうした虚妄のうえに成り立つ民主主義そのものを改革しなければならないと指摘したい。

民主主義の改革は、「主体=私」がかかわる選挙制度の改革と、「主権=公」がかかわる政府の改革の両面から議論されなければならない。民主主義は選挙およびそれによって生じる政府を結びつける手続きであるからだ。

 

こうした認識にたって、まず、選挙改革について考察した。

 

民主主義を支えているのは、投票による多数決である。この手続きが「私」を「公」に転換する。しかし、「私」は投票したときにだけ政治家とつながるが、多数決で選ばれた代理人(議員)とは、それ以降、なんのかかわりをもたない。たとえ、自分が投票した人物が議員に選出されたとしても、その議員が自分の意見を代弁してくれる保証はどこにもない。にもかかわらず、この手続きを経るという形式だけで、「私」の想いが「公」に転化されてしまう。この投票制度には、二つの大きな問題点がある。

第一の問題点

第一は、「私」は意識的に投票するが、その「私」は無意識や身体を含む「自分」全体を代表しているわけではないという問題である。無意識部分を投票という意識的行動に反映させるのは難しい。ただ、「私」の判断が「自分」の判断ではなく、実は無意識や身体の変化に応じて移ろいやすいものでしかないことに気づけば、4年に一度といった頻度でしかなされない投票は、「自分」を反映していない、その時点での「私」の意識だけを反映したものにすぎないことになる。投票日の翌日になれば、もう違う「私」になっているかもしれない。少なくとも、無意識や身体を含む「自分」は投票日の「自分」とは異なっているはずだ。日々、いや刻一刻、変化する「自分」の想いを投票に反映させるのは困難かもしれないが、少なくとも「自分」の変化とともに、意識をもった「私」も対応を迫られるわけであり、そうした「私」の変化が民主主義の過程のどこかに反映されるべきではないか。投票を頻繁に行うことは財政上の事情などから難しいにしても、インターネットを通じて頻繁に国民の意識に問いかける仕組みが必要だろう。「自分」はもちろん、「自分」の刻一刻の変化に対応を迫られる、意識をもった「私」も、うつろいやすいのだから。

フロイトによる無意識の概念化以降、人間の人格がもはや意識だけの制御下にあるとは考えられなくなっている。こうした状況に適合した新しい国家論を展開した東浩紀の『一般意志2・0』が参考になる(東, 2011)。東が構想しているのは「公(全体意志)と私(特殊意志)の対立を理性の力で乗り越えるのではなく、その二項対立とは別に存在している、無意識の共(一般意志)を情報技術によって吸い出すことで統治の基盤を据える新しい国家」である。ルソーやヘーゲルの時代には、国家はただ一つの一般意志(意識)をもち、政府(人格)はその単純な表出=代行機関と考えられていた。ゆえにルソーは「政治体の生命の根源は主権のなかにある。立法権は国家の心臓であり、執行権はすべての部分に運動を与える国家の脳髄である」と考えたわけだ。

21世紀の国家2・0においては、一般意志は、「一般意志1・0」もしくは「全体意志」(意識)と「一般意志2・0」(無意識)に分裂しているから、政府2・0は「一般意志1・0」の僕でもなければ「一般意志2・0」の僕でもない、政治家が支配するのでもなければ検索エンジンが支配するのでもない、むしろ両者の相克の場となる。こうした前提にたつと、これからの政府は市民の明示的で意識的な意志表示(選挙、公聴会など)だけに頼らずに、ネットワークにばらまかれた無意識の欲望を積極的に掬いあげ政策に活かすべきであるという議論になる。彼が主張しているのは、これまでの人間のコミュニケーションへの信頼性や理性に立脚した熟議重視の政治を継続するだけでなく、欲望や感性にまかせて動物的に生きているだけにみえる、いわば無意識に蠢いているだけのように思われてきた市民のつぶやきを積極的に吸い上げて市民間の意識的コミュニケーションの活性化につなげるべきだということだ。この無意識の認識には国家や企業などに蓄積された膨大なデータ、データベースが役立つ。

東の議論では、人間には動物的な面と人間的な面の両面がある。動物的な面は快を最大化するために功利主義的にふるまうもので、その分析は経済学が得意とする。いわば動物的人間は統計処理しやすい「モノ」として扱われ、そこに市場が生まれる。他方、人間的側面に着目すると、一人の人間はそれぞれ唯一無二の存在として扱われ、その一人一人が集まった空間として公共空間が生まれる。私的には動物として、公的には人間として、考えるというのがヨーロッパ的共同体における思想の基本的枠組みであったことになる。この思考の枠組みを「民主主義2・0」の共同体に適用すると、私的で動物的な行動の集積こそが公的領域(データベース)をつくり、公的で人間的な行動(熟議)はもはや密室すなわち私的領域でしか成立しない、ということになる。

 

第二の問題点

第二は、自分」のなかには、複数の「分人」があり、単一の「私」に統合できない複数の意識としての「分人」があるのかもしれないという見方をとると、1人1票という制度を改める必要があるのではないかという問題である。そう考えると、1票を最高4分割することを認め、0.25票ずつ投票することを認めることで、複数の候補者への投票を集計したうえで、上位2人によるくじ引きで当選者を最終的に決めるといった方法もある。すべてが投資の貨幣であるという新しい貨幣システム、伝搬投資貨幣システム(Propagational Investment Currency System, PICSY)を応用した伝播委任投票システムが鈴木健によって提案されている(鈴木, 2013, pp. 137-176)。これは、委任をさらに別の人に再委任することができる投票システムで、1票を分割して矛盾した投票をしても、投票の社会ネットワークを通して票が伝播して、最終結果が導かれる。このシステムによって、政党や派閥、利益団体を仮想化、透明化し、万人が誰でも少しずつ政治家であるような社会システムを考えることができるという。まさに、「分人主義」の立場に立てば、こうした方法こそ望ましい。

シンガポールの首相を長く務めたリー・クアンユーは、「家族をもつ40歳以上の男性すべてに2票を与えていれば、我々のシステムはもっといいものとなっただろうと、私は確信している。なぜならそうした人は子どもにためにも投票し、より注意深くなるからだ」と語ったことがある(Foreign Affairs, March/April, 1994)。彼に言わせれば、40~60歳の間、2票の投票権を与え、60歳で、もとの1票に戻すべきだということになる。ほかにも、ポール・ドメインが1986年に提唱した、投票権をもたない未成年にも投票権を認めるという主張もある。子ども一人につき0.5票ずつ母親と父親が代理して投票するといったやり方を認めよというのだ。このように、一人一票制が当たり前という先入観自体を壊すところから改革しなければならないのではないか。

 

というわけで、「21世紀龍馬」をめざす若者には、ここで指摘したような論点について真正面から考えてもらいたい。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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