教育のビジネス化

教育のビジネス化

 

暇な時間があるので、「教育のビジネス化」について論じておきたい。以下に拙稿を示そう。

 

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国家を主導する政治家や官僚は国家政策を歪めて、彼らの既得権益を守ろうとするだけでなく、新たな分野を開拓して権益拡大をはかろうとしている。後者の典型が教育のビジネス化であろう。教育のビジネス化を通じて、国の補助金を掠め取り、自らの利益拡大につなげようとする動きがあるのはたしかだ。森友学園や加計学園の問題は教育ビジネスの存在をあからさまにした。国家支援を受けて土地を安く調達したり、無償で得たり、加えて、補助金を得て学校設備を整備したりして、教育を名目にして利益を不当に稼ごうとしている人々が大勢いるという現実を多くの人々に教えてくれたのではないか。しかも、そこで行われる教育が優れたものとなる保証はどこにもないのである。

国家は教育のビジネス化以外にも、医療のビジネス化ももくろんでいる。医療分野にも大きなビジネスチャンスがころがっているようにみえる。その場合にも、「国家を信じるな」という態度は重要だ。政治家や官僚が結託して、一部の人の利益を優先させる制度変更を仕組むかもしれないが、海外でも医療分野は急速に変化しているから、国内の政治家や官僚の悪だくみだけでは思い通りにはゆかないだろう。この分野のもたらす職業や会社の変化についてもよく考えてほしい。

一つだけ例をあげておくと、IBMはAI技術を活用して、医師の診断を補う目的で「ドクター・ワトソン」という診断サービスの開発を行っている。過去の臨床例はもちろん、多くの人々の症例、治療結果、検査結果、病歴などの多くのデータを蓄積し、診断精度を高めれば、患者の治療をより迅速かつ的確に行うことが可能になる。もちろん、ドクター・ワトソンが登場しても、診断医師が不要になるわけではない。あくまで補助的な役割を果たすことになるが、医師の見落としや錯覚などから治療に悪影響をおよぼすケースは減るに違いない。

 

人口減少と大学

「テクノフォビア」に侵された政治家や官僚によって支配されている日本では、AIやブロックチェーンなどの新技術への関心が薄い。ゆえに、かれらが監督する教育や医療にかかわる政策は時代にマッチしていていない可能性が高い。こんな状況がこれからも何十年もつづきかねないのだ。ここでは、教育に目をつけてビジネス化をもくろむ国家を決して信じてはならない点についてもう少し分析をしてみたい。

不可思議なのは人口減少のなかで教育ビジネスに目をつける動きがあることだ。常識的に言えば、今後、就学人口が大幅に減るのは確実だから、教育産業は学生を求めて競争が激化すると予測される。ゆえに、教育産業には厳しい前途が待ち構えているようにみえる。しかし他方で、大学までの学費を無償化するといった動きが今後、広まる可能性があり、人口が減っても大学入学希望者全員が大学にただで通えるようになるから、大学入学者数は全体としてはあまり減少しないとみる楽観論もある。加えて、高齢者が大学に入り直し、勉学に取り組む動きが広がる可能性もある。どうやら「悪い奴ら」はカネのにおいにはきわめて敏感であるようなのだ。

文部科学省が2018年2月、中央教育審議会の大学分科会に提示した2040年度の大学進学者数は50万6000人で、2017年度に比べて12万4000人も減少するという。こうした減少を補塡するのが中国などからの留学生だ。すでに大学充足定員を下回る私立大学中心に留学生を積極的に受け入れることで、国から給付される留学生分の学生納付金の増加に期待をかけているのだ。簡単に言えば、授業料支払いがついてくる留学生の受け入れを積極化して、日本人大学生の減少による学生納付金の落ち込みをカバーしようとしているのだ。国は中国などからの留学生を積極的に受け入れて、かれらが一時的な労働力を国内で提供してくれることを期待しているようにみえる。

**君よ。ぼくはいまの日本の教育の現状を憂えている。なぜなら30年先の変化に対応できるように学生を教導しているようには思えないからだ。いくら大学の授業料を無償化しても、そこで有意義なことを学べないのであれば、そんなところに通うのは時間の無駄だろう。たとえば、日本では2020年度から小学校での「プログラミング教育」が必修化されることになっている。しかし、新しい教科ができるわけではない。プログラミング言語を教えるわけでもない。ただ、「プログラミング的思考」という、ものごとを論理的に考えるための手順やそれに則った解決法について学ぶにすぎない。高校レベルでは現在、教科「情報」が「社会と情報」と「情報の科学」のどちらかを選択する、選択必修科目として存在する。後者を選択すればプログラミングそのものを学ぶことになる。新学習指導要領のもとでは、2022年度から全員必修の「情報Ⅰ」と選択科目の「情報Ⅱ」に再編され、どちらにもプログラミングが含まれるようになる。

しかし、外国と比較してみると、ずいぶん悠長な話だと指摘せざるをえない。たとえば、ロシアには情報と数学から生まれたInformaticsという「コンピューター・サイエンス」科目がある。全国レベルでの試験も行われており、2014年単年で6万人がこの科目を選択したという。ロシアがInformaticsを中学や高校で教えるようになったのは1985年のことだ。選択科目として導入後、必修化され、高度なプログラミングも高校レベルで学ぶことができるようになっている。こうしてみると、国家が教育に口出しするにしても、日本がいかに世界の潮流から遅れているかは歴然たるものなのだ。

 

全体主義への傾斜

**君よ。国家がこうしてどんどん教育に介入しつつあるのは決して望ましくないことを理解してほしい。国家は国民を騙して戦争をしてきたし、再び、同じ過ちをしかねないことを忘れてはならない。日本の場合には、その介入が世界からみると、とんでもなくピンボケであったり、遅かったりする。

全体主義と言えば、ヒトラーのナチ支配やソ連のことだと思っている人が多いかもしれない。しかし本当は、米国も日本も中国も全体主義国家と言えなくはない。全体主義はトータリタリアニズム(totalitarianism)と呼ばれ、「個人は国家・社会・民族などを構成する部分であるとし、個人の自由や権利より国家全体の利益が優先する思想、また、その体制」(『広辞苑』)を意味している。個人より国家全体の利益を優先する程度次第で全体主義の程度が異なるだけであり、日本や米国が全体主義ではないなどとそもそも断言することなどできないのだ。

エミル・レーデラーはその著書『大衆の国家』のなかで、「全体主義国家は大衆の国家である」と書いている。大衆の存在自体が全体主義国家につながりかねないというわけである。シグマンド・ノイマンは『大衆国家と独裁』のなかでは、大衆操作のために藝術が活用されてきたことに目を向けている。全体主義の国家体制を厳密に定義づけるために、カール・フリードリヒーらはつぎの六つの指標から全体主義化の程度を考察している。①念入りにつくられたイデオロギー、②典型的に一人の人間により指導される単一の大衆政党、③党と秘密警察を通じてもたらされるテロルのシステム、④マスコミのすべての手段を党や政府に支配のもとに独占すること、⑤武器の利用のほぼ完全な独占、⑥官僚的調整を通じた経済の集権的コントロール――というのがそれである。それぞれの項目ごとに日欧米先進国ごとに程度の差はあるものの、これらの条件が多少なりとも当てはまると認めないわけにはゆかないのではないか。これは裏を返せば、全体主義国家は程度の差にすぎず、日欧米の先進国であっても全体主義国家とは無関係などとは決して言えないことになる。

この指標のなかには、教育への国家干渉が含まれてはいない。しかし、「国家を信じるな」という主張には、国家が歴史の勝者として国民に国家に都合のいい歴史観を押しつけてきた事実が関係している。個人より国家の利益を優先させる見方を、教育を通じて植えつけることで、全体主義への道に引きずり込もうとしていると言えるのだ。

ヨーロッパの場合、義務教育は宗教教育を通じて行われた義務教育を国家が教会や領主から簒奪して担うものであった。もともとは、ギリシャ時代のスパルタでの教育は一種の義務教育であったと言えるし、802年にはカール大帝が貴族の子弟に限定されない義務教育令を発した。こうした事例は認められるものの、歴史のなかで忘却される。広く民衆に教育を施すという考え方が広範囲に政策に採用されるようになったのは、民衆が聖書を読めるようにするという宗教改革の精神を自領地内で実践しようとする為政者が現れたためである。いわゆるゴータ公国を治めていた、ルター派のエルンスト一世は1642年、ゴータ教育令を発し、12歳までの義務教育制度を整備した。文字を読めるようになることに力を入れ、一人一人が聖書と向き合うことを可能にした。1763年に、プロイセンのフリードリヒ二世は「一般地方学時通則」を発令し、王に対する忠誠心と愛国心を養うとともにキリスト教道徳を教え込むための初等教育制度をスタートさせた。1872年になると「学校監督法」ができ、公教育において宗教が分離されることになった。

カトリック教会が支配的であったフランスでは、教会の力が強く、国家による宗教への干渉が警戒された。この結果、フランスでの義務教育導入は1882年のことだ。同時に、義務教育における非宗教性・政教分離の原則(「ライシテ」)が導入された。国家が宗教に直接、関与しないことを条件に義務教育化がようやく認められるようになったのだ。

 

国家による歴史教育

「国家=政府が」義務教育を通じて教え込もうとしたなかには、「歴史」がある。もともと歴史は可死の人間を不死にとどめるという面をもっている。その意味では、永続的な統治をもくろむ「国家=政府」がその支配の正統性を国民に教え込むために歴史を活用するのは合理的と言えるかもしれない。

国民主権をもとに民主主義を奨励し、民主主義を金科玉条のように祭り上げて主権国家の正統性を確保するために、民主主義を過度に礼賛する視角から歴史を語り、それに立脚した「国家=政府」の正統性を教え込み、「国家=政府」の継続につなげるという方法が世界中に蔓延している。そのために政府が支払っている資金は莫大だ。それだけのコストを払って、政府を守ろうとしてきたともみなせる。まさに全体主義に向けて、国家が積極的に活動していることになる。だからこそ、イサベル・パターソンは「税金によって支援された義務教育制度は全体主義国家の完全なモデルである」と記したのである。

 

選択の重要性

**君よ。「今後30年以内に大学数1117行(2017年)が3割減少する確率は70%である」とぼくは予測している。大学改革を本格化しなければ、かたちばかりの大学が存在しつづけるかもしれないが、それは「電電ファミリー」や「電力ファミリー」のところでのべたような弥縫策にすぎない。国家の教育への干渉を厳しく制限し、もっと自由な大学が増えることが望ましい。そのためには、株式会社による学校法人設立を促進することは誤りではない。国家に後押しされるのではなく、株式会社主導で教育できる環境を整えることは学生の学ぶ選択肢を増やすことになるからだ。

もちろん、株式会社が直接大学を設置することを認めると、利益追求中心の運営で教育が蔑ろにされる危険が生まれる。資格試験ばかりが重視されたり、株式会社の経営状況に学校そのものの運営が左右されたりしかねない。しかし、株式会社が寄付行為を通じて学校法人を設立するのであれば、こうしたリスクはある程度回避できるのではないか。

たとえば、豊田工業大学をみてみよう。この大学はトヨタ自動車の社会貢献活動の一環として1979年に学校法人・トヨタ学園がつくられたところからはじまっている。大学は1981年に設置された。工学部のみの単科大学だが、大学院もあり、授業料も安い。スーパーのダイエーの創業者、中内功が1988年に学校法人・中内学園を登記し、同年4月から流通科学大学商学部をスタートさせた例もある。こうした大学が増えれば、国家や地方自治体からの支援をあてにした筋の悪い大学とは異なる大学が生まれるのではないか。

世界における潮流の変化に敏感な民間企業が寄付行為によって学校法人をつくり、そこで世界に通じる人材育成に励むことは決しておかしなことではない。国家がすべきなのは教育に直接干渉することではなく、こうした民間の活動を支援し、学生に大学を選ぶ選択肢を広げることなのである。たとえば、米国には「ロビイスト」という政治家と企業などを仲介する人々がいる。このロビイストについて学びたければ、ハーバード大学の大学院であるケネディ・スクールでは、2012年1月から、「ロビイング:理論、実践、シミュレーション」という授業を受けられる。講義者は非常勤講師を務める、同大学のビジネス・政府センター元上席研究員、マーク・ファーガンだ。しかし、こんな授業を受けられる日本の大学や大学院はない。少なくともぼくは知らない。

 

AI時代への対応

ぼくが大学で教えていてつくづく感じるのは、その教育内容の重要性である。将来性があるとは言えない核発電関連研究を学ぶ者にとって、その研究のインセンティブを保てるのか、いささか心配になる。あるいは、金融論や銀行論のようなものを学んでみても、その有用性がなくなろうとしている現実まで学生に伝える授業をしているのかと問いたくなる。今後、需要が先細りになりそうな税理士や会計士の資格をめざしても仕方ないのではないかという悲観論に教える側はどう答えるのだろうか。国家が教育内容にまで口出ししているいまの現状では、国家によるバイアスがかかってしまうから、お先真っ暗な学問でも必修科目であったりする。将来、あまり役立ちそうもない学問を押しつけられている可能性が高い一方、コンピューター・サイエンスのような重要な科目を学ぼうとしても十分な教育が受けられないという悲惨な事態が生まれている。

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みなさんはカーン・アカデミーの講座(https://www.khanacademy.org/)を知っているだろうか。MITで数学や工学を専攻した元ファンド・アナリストだったサルマン・カーンがはじめた無償のアカデミーだ。コンピューティングの講座には、コンピュータープログラミングやコンピューター・サイエンスを学べるサイトがある。コンピューター・サイエンス教育が遅れている国に住んでいる人々は、このサイトにアクセスすることで国家を超えて必要で重要な学問をすることが可能となっている。ついでに、2013年に米国政府の諜報活動の実態を暴露した人物、エドワード・スノーデンはかつてインドでハッカー講習を受けた経験がある。インドに短期間留学すれば、物理的に国境を越えながら、興味深いことが学べるかもしれない。

日本には、19ch(塾チャンネル)がある。小学3年〜6年までの算数、中学生の数学、国語、理科、社会、英語、高校数学の問題と授業が無料で受けられる。

グーグル創業者(ラリー・ベイジとセルゲイ・ブリン)、アマゾン創業者(ジェフ・ベゾス)、ウィキペディアの創始者(ジミー・ウェールズ)が受けていたことで有名な「モンテッソーリ教育」にしても、日本には学校法で認可された学校はない。自発的な学習を可能とする教育法ですが、もはや国家の壁を越えて世界中に広まっています。あるいは、教育学者スガタ・ミトラの提唱する、良質な先生がいない遠隔地でインターネットを通して自律して勉強するアプローチである「自己学習環境」重視の教育が注目されていることも紹介しておきたいと思う。

 

4Cの大切さ

人生の先輩として率直に言うと、私が大学で学んだことは私の人生にほとんどまったく役立っていない。いまでも印象に残っている授業と言えば、西岡秀雄の「経済地理学」だけだ。世界中のトイレットペーパーを収集していた彼はトイレットペーパーの違いから世界の政治・経済や文化の違いをみる視角を教えてくれた。ほかの授業については、教えてくれた教員の名前すら記憶にない。これが現実だ。

たぶん、大学で行っている私の授業を含めて、いまの日本の大学でのほぼすべての講義は30年後の君たちからみれば、役立つものではなかったということになるかもしれない。理由は簡単で、過去にとらわれすぎた講義内容が多すぎるのだ。将来を見据えた、将来に役立つ学問上の視角を養うといった教育的アプローチがとられていない結果だろう。

2017年にキャシー・デイヴィドソンが著した『新しい教育』という本では、学校は批判的考察(Critical thinking)、コミュニケーション(Communication)、共同(Collaboration)、創造性(Creativity)の四つのCを教えるように転換すべきであると書かれている。さらに、もっとも重要なのは、変化にうまく対処し、新しいものごとを学び、精通していない事態に精神的バランスを保つ能力であるとされている。このサイトにおいて、この4Cに力点をおいた教育ができれば幸甚に思う。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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