大澤真幸著『〈世界史〉の哲学 現代篇2 アメリカというなぞ』を読む (1)
大澤真幸著『〈世界史〉の哲学 現代篇2 アメリカというなぞ』を読了した。いつものように、メモ代わりに重要と思えた部分を書き留めておきたい。7月には、拙著『ネオ・トランプ革命の深層』が上梓される。大澤の本は、トランプ政権のことを直接記述しているわけではないが、この本を読んだうえで、拙著を読んでもらえば、その内容がより深く理解できると思われる。その意味で、推奨したい一冊となっている。
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マサチューセッツ湾植民地の初期の指導者ジョン・ウィンスロップ
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ウィンスロップは、この説教を、このあと「申命記」第30章を引くかたちで終えている。その部分で、もし神との約束を違え、偶像を崇拝するならば、「あなたたち[イスラエルの民]」は、「ヨルダン河を渡っていく土地」で必ず滅びるだろう、とモーセが語っているからであろう。大西洋の横断を、ヨルダン河の渡河と重ね合わせたのだ。
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有名な映画とは、ミュージカルの『サウンド・オブ・ミュージカル』(ロバート・ワイズ監督、1965年)である。
どこが猥褻なのか。見習い修道女マリア
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修道院長⇒「すべての山に登りなさい」
アメリカ史の中でキリスト教が果たした役割は、この猥褻な修道院長のマリアへの働きかけに見立てることができる。キリスト教は、欲望の放棄を命じたのではなく、逆に欲望を煽動したのだ。ウィンスロップの「河を渡れ」という説教が、この修道院長の「山に登れ」という歌に置き換わって、アメリカ史に作用していたかのようだ。いかにして置き換わったのか?
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原罪
繰り返せば、われわれは一般に、常にすでに(原初の)「ソフィーの選択」を終えたものとして生きている。だが、ソフィーのように罪責の感覚に苦しむわけではない。その原初の選択は――「他を選択すること」を不可能だったこととして排除したうえで――、すでに完了してしまっているからである。このことに関して、『ソフィーの選択』で描かれたソフィーの苦しみを
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思えば、次のように言うこともできるだろう。われわれは、本来だったら――ソフィーの選択をなした者だったら――もつはずだった罪の感覚を抑圧しているのだ、と。この抑圧された罪悪感こそ、いわゆる「原罪」の論理的な根拠ではなかろうか。人間は事実の問題として原罪を犯しているわけではない。人間がそれぞれに特殊なアイデンティティを構成するときの論理的な条件として、現在が過去に投射されるのだ。
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千年王国論(millenarianism)とは何か、あらためてその定義を確認しておこう。キリスト教は、終末論の構成をとっている。終末の日に最後の審判があり、つまり神による裁きがあり、救済され神の国で永遠の生命を享受する者と、呪われ、地獄で永遠の苦しみを受ける者とに分けられる。千年王国論は、このキリスト教の絶対的な前提である終末論を背景にしなくては意味をもたない。千年王国論は、これに加えて、終末の前に千年間続く至福の王国がある、とする。
さらに千年王国論は、キリストがいつ再臨するのか、ということとの関係で二種類に分けられる。千年王国の後にキリストはやってくるのか、それとも、千年王国に先立ってキリストはやってくるのか。キリストが再臨してから千年王国が実現すると考えるのが、「前千年王国論(premillenarianism)」、千年王国の後にキリストが再臨するとするのが、「後千年王国論(postmillenarianism)」である。
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しかし、千年王国論はその後、ヨーロッパの歴史の中で、突然のように回帰してきて、枢要な役割を果たすことになる。どこに回帰するかと言えば、17世紀のイギリスだ。イギリスのラディカルなプロテスタント(ピューリタン)の多くが、千年王国論を受け入れた。千年王国論こそ、ピューリタン革命を推進した最大の思想的なエネルギー源である。この場合、アンチキリストにあたるのは、カトリックや国王派になる。
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二つの千年王国論の違いはどこにあるのか。前千年王国論の場合には、千年王国をもたらす主体は、外部の超越的な場所から歴史に介入するキリストにある。人間の役割は、補助的で受動的だ。後千年王国論では、歴史に内在する人間が主体である。人間自身がその主体としての力能に
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よって、千年王国をもたらすことができるということになる。
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そもそも「信ずる」とはどのようなことなのか。神を信じている、とはどのような態度を意味しているのか。信じていることの条件とは何なのか。
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この状況を的確に記述する上で、ラカン派の精神分析学者ドミニク・オクターヴ・マノニが展開した理論が役に立つ。マノニは、単純に何かの存在を信じているという状態(仏語croyance)と、主体的なコミットメントを含むかたちで信仰している状態(仏語foi)とを区別しなくてはならない、と述べている。ラカン派の概念を用いれば、前者は想像界に属することで、後者は象徴界にかかわることなのだが、ここでは、ラカンの用語を使わずに解説しよう。
フランス語の“croyance”にあたる「信ずる」は、そのように「思っている」ということであり、当事者の主観として「知っている」と同じである。客観的にはまちがったことを、本人は知っていると思っている場合もある。つまり誤解や誤認であり、あるいは誤った信念であるとされるが、当事者の観点からは、単純に「知っている」つもりである。たとえば、古代のユダヤ人は、さまざまな精霊や魑魅魍魎が存在することを「知っている」のである。われわれの観点からすると、それは誤った知であるが。
それに対して、フランス語の “foi”(英語faith)の意味での「信ずる」には、その信ずる対象との関係に、私が自らの主体的な選択としてコミットするという含意が伴っている。知っている対象(croyanceの対象)は、私のコミットメントとは無関係に存在している。しかし、“foi”と
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いう意味で「信ずる」には、私があえて、自らの責任において関与しているという含意が随伴する。たとえば、約束するとき、私があなたを信頼し、あなたも私を信頼している。そのような信頼があるので約束は可能だ。この信頼がfoiである。
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『革命について』に示されるアーレントの議論は、アメリカ史をめぐる二つの解釈、対立する典型的な解釈との関係で位置づけることができる。二つの展開とは、「共和主義的解釈」と「自由主義的解釈」である。
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それならば共和政ローマの元老院に対応する、アメリカ側の制度は何か。この点においてこそ、アーレントの洞察力が発揮される。(ローマの)元老院に対する機能的等価物、つまりアメリカにおける権威の担い手は、憲法、そして最高裁判所を頂点とする司法制度である、と。ローマの元老院は、建国の父の代理人であり、その後継者であると見なされている。そして、アメリカには特有の司法審査制度がある。すなわち、アメリカの司法制度は強力な違憲立法審査権を伴っている。この司法審査制度は、「一種の連続的な憲法作成」として解釈できる、というのがアーレントの見解であ
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る。司法制度というかたちで、建国の行為が普段に反復され、保存されている、というわけである。
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アーレントの見るところ、ヨーロッパの思想家たちは――中世以降、近代に至るまでのほとんどの思想家たちは――、法を、一神教的な神(絶対者)に由来するものとして解釈してきた。「法自体が戒律と考えられ、「汝なすなかれ」と人びとに語る神の声として解釈されるようになった」。ヨーロッパ人が抱いていた法のモデルのイメージは、「ヘブライに期限をもつものであり、モーゼの十戒によって与えられたものであった」。そして、そのイメージは近世でもそのまま維持されている。「このモデルそのものは、17世紀と18世紀に自然法が神の地位に踏みこんだときも、変化しなかった」。
神と結びついた法という観念は、ヨーロッパの思想に深く、広く浸透した。⇒シュミットの考えでは、近代の法・政治の概念はすべて神学に由来する。
法や権威の源泉には神=絶対者があるとするこのような理解は、ヨーロッパの法思想の根幹をなしてきた。このような法概念は否定できない常識のようなものになっていたのだ。だが、しか
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し、それでも絶対者や神々の存在は、法や権威の存在にとって必然だというわけではないということ、これこそ、アーレントが確保しようとしている論点である。その証拠は、古代の法、つまりギリシアやローマの法である。アーレントの認識では、ギリシアの法、ローマの法は、権威の源泉となるような超越的な存在者をもたずに成り立っていた。たとえば、ギリシアの伝説では、立法者はコミュニティの外部から、ポリスの外からやってきたのだが、これらの立法者は、神格をそなえておらず、いささかも超越的なところはなかった。
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創設の行為そのものに権威が孕まれている
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