拙著『ネオ・トランプ革命の深層』について

ようやく7月に拙著『ネオ・トランプ革命の深層』が刊行になる。そこで、本書の紹介と、販売協力を求める告知をここにアップロードしてみたい。

 

まず、本書を理解してもらうために、「はじめに」部分を紹介しよう。縦書きを横書きにして示す。なお、(注)は割愛している。

 

 

 

はじめに

「革命」について最初に、『ネオ・トランプ革命の深層』の革命部分について説明しておこう。革命については、拙著『ロシア革命100年の教訓』のなかで考察したことがある。重複を恐れず、そこでの説明を繰り返したい。

ここでは、〝revolution〟という英語を「革命」と訳している。よく知られているように、ここでいう革命は近代の日本人によって考案された「日本漢語」(新漢語)の一つであり、これが近代以降、東アジアに広まったと理解すればいい。その意味で、ここでの関心はあくまでrevolution にある。

地動説を説いたニコラウス・コペルニクスの主著『天球の回転について』はラテン語でDe

Revolutionibus Orbium Coelestium であることからわかるように、revolution はもともと天文学上の用語であり、循環する周期的運動を表していた。ゆえに、この言葉は1年後に同じ場所に戻ってくる天体の回転というイメージを踏まえた「復古」という意味を強くもっていたと、ドイツ出身の米政治哲学者で『革命について』を著したハンナ・アーレント(1906~75)は主張している。革命という言葉が復古的な意味合いで最初に政治上使用されたのは、クロムウェルによるピューリタン革命(1641~49)のときではなく、1660年に君主政が復古したときであり、1688年の名誉革命でスチュアート家が追放され、王権がウィリアムとメアリーに移ったときにも革命が使われた。革命はやがて、天体の回転というイメージが喚起するように、抵抗できず、抗いがたいという「不可抗力性の概念」をもつようになる。フランス革命は圧倒的な力で押し流されていく貧民の悲惨を伴っていた。

この復古と不可抗力という二つの意味合いが革命の前半と後半に対応関係をもっている。革命前半においては復古を求めるのであり、革命後半では、不可抗力に抗いながらも新しい「はじまり」を創設するための「権威」や「絶対者」が希求されることになるのだ。これが1917年のロシア革命においては、2月革命、10月革命というかたちで革命の前半と後半として実践されたことになる。

 

二つの「自由」および「はじまり=原理」

アーレントにとっての革命は、この復古と不可抗力を背後にもった近代固有の現象であり、彼女にとって革命は、「自由」の観念と「はじまり」の経験とが同時に起きる(一致する)現象ということだった。なお、「自由」には、リバティー(liberty)とフリーダム(freedom)の二つがある。前者は「不正な拘束からの自由」といった「~の自由」という「解放の結果」を指している。日本語の「自由」は「自らに由(よ)る」に由来している以上、リバティー概念に近い。後者は「公的関係への参加、あるいは公的領域への加入」を意味している。いわば「公的自由」を意味し、言論行為に代表される政治参加に不可分の概念ということになる。アーレントはとくに後者を重視していた。なぜなら、フリーダムこそ共和政を構成する精神であったからである。

他方で、「はじまり」の経験という厄介な概念をアーレントは提起している。「はじまり」とは、「自由の創設」を意味し、公的領域の創設に参加することを指している。ここで重要なことは、「はじまり」というラテン語〝principium〟が原理(principle)と分かちがたく関連している点だ。ギリシャ語の「はじまり」を表すアルケー(ἀρχή)は原理という意味ももっているが、公的領域の「はじまり」はやがて記憶や回想の対象となり、伝統や慣習、さらに宗教などに転化され、権威づくりに一役買うのである。「はじまり」と結びつくことで「原理」が形成されることになる。つまり、「はじまり=原理」ということになる。ゆえに、「はじまり」はきわめて重要な意義を有していると言えるだろう。

「はじまり=原理」と言葉革命と呼ばれるには、この「はじまり=原理」を伴うことが不可欠の条件ということになる。これがいかに重要であるかは言語に明白に現れる。新しい原理は新しい言葉を生み出したり、意味の変容を引き起こしたりするのだ。

私のよく知るロシアで言えば、その典型が「ソヴィエト」という聞きなれない言葉の登場だろう。ロシア帝政時代には「相談」や「助言」を意味するだけであったソヴィエトは、いつの間にか「相談し助言し合う寄り合い」に転じ、さらに、一種の合議体や自治組織を意味するようになる。一説には、1905年の「第一次革命」のときに生まれたもので、ロシアの総体主義の伝統に根ざしていると指摘されている。果ては国家の名前にも使われるまでになる。これは、言語の進化が「カンブリア爆発」という節足動物、軟体動物、棘皮動物の出現と同じように比較的短期間に劇的な変化として起きる証ともなっている。

 

トランプによる「反革命」?

ここで紹介した「はじまり=原理」という条件をトランプの新政権がもっていると考える最大の理由は、トランプがヘゲモニー国家アメリカの構築してきた秩序や価値観の体系のようなものを壊そうとしている点にある。そう、トランプは「壊す人」(disrupter)なのである。その結果、そうした秩序や価値観への信頼もまた揺らいでいる。それは信頼に支えられた「知」の体系そのものもまた崩しつつある。「多様性、公正性、包摂性」を意味する〝diversity, equity andinclusion〟(DEI)という言葉の「言葉狩り」をも生み出し、少しずつ言語にも大きな変化を引き起こそうとしているようにみえる(第三章で詳述)。

あるいは、これまで使われてきた言葉の意味に明らかな変化が生じている。2025年2月17日付のワシントン・ポストによると、たとえば、連邦政府における透明性(transparency)は、データ、連邦契約書、政府報告書へのアクセスを意味していたのに、トランプ政権になって、トランプ大統領が記者からの質問によく答えるので、政権は透明だというようになったと報じている。

こう書くと、トランプがとんでもないことを仕出かしているという印象をもつかもしれない。いわば、近代化以降に培ってきた西洋文化そのものを否定し、近代以前に引き戻そうとする「反革命」をしている感じさえもつかもしれない。だが私はこうしたトランプの仕掛けている変革を高く評価している。注2に書いたように、もともとの中国語の革命がイメージする、虎の毛の抜け変わりによって虎の美しい紋様が引き出されるような印象をもっている。だからこそ、あえて革命という言葉を使いたいと思った次第である。

 

「ナポレオン革命」ならぬ「ネオ・トランプ革命」

私が本書のタイトルを『ネオ・トランプ革命の深層』に決めた理由は、2025年2月15

日に訪れた。トランプ自身が「自国を救う者はいかなる法にも違反しない」と自身のソーシャルメディア・プラットフォーム「トゥルース・ソーシャル」に、ついでウェブサイト「X」に書き込んだからである。この〝He who saves his Country does not violate any Law〟という言葉は、通常、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの名言(Celui qui sauve sa patrie ne viole aucune loi)として知られている。つまり、トランプは自らをナポレオンになぞらえつつ、自分が法の上に立つと宣言したようなものなのだ。

「ナポレオン革命」という言葉が人口に膾炙しているわけではない。それでも、ナポレオンは、契約の自由、私有財産の不可侵などを盛り込んだ民法典、すなわち、「ナポレオン法典」を制定し、ヨーロッパに広めた。半面、彼は終身皇帝を宣言し、絶対的な支配者となり、家族や友人を要職に就けるようになる。もちろん、容赦ない戦争を繰り返し、民主主義を踏みにじった。それでも、ナポレオンの変革はフランスだけでなく、西欧諸国に「はじまり=原理」をもたらした。ゆえに、「ナポレオン革命」と呼ぶに値する。

そのナポレオンをトランプが意識しているとすれば、「ネオ・トランプ革命」なるものがまさにいま、起きているのかもしれない。いや、トランプの政策が引き起こすハレーションは、多くの人々に新たな気づきを与えており、それだけでも十分に評価できるのではないか。

トランプ自身、こうした革命を意識的に行っている。2月19日、ホワイトハウスはトランプが王冠を被っている偽の雑誌の表紙をXに投稿した。これはニューヨーク市が混雑課金プログラムを撤回した後に配信された。「Long Live the King」(国王万歳)という見出しがつけられていた。

 

過去にいた法の上に立とうとした大統領

過去の歴史を知っていれば、トランプ大統領だけが法の上に立とうとしたわけではない。たとえば、南北戦争の初期、エイブラハム・リンカーンは人身保護令状を停止し、軍隊を招集し、議会が開会中でなかったため予算計上されていなかった資金を支出した。議会が再開されると、リンカーンは自分が行ったことを伝える書簡を送り、議会は彼の行動を遡及的に批准した。ウォーターゲート事件で弾劾されるのを避けるために辞任した後、リチャード・ニクソンは、リンカーンの例を引き合いに出し、大統領は、そうすることが国益にかなうと判断すれば、政府高官に法律を破る権限を与える固有の権限をもっていると語った。

こうした例は、通常、国家安全保障に限られている。ニューヨーク・タイムズ(NYT)は、「国家安全保障に関する訴訟はめったに起きないが、起きた場合、最高裁は大統領の権限に関する広範な理論に懐疑的である」として、ハリー・S・トルーマン大統領が朝鮮戦争対策として製鉄所を差し押さえようとした際には、これを取り消した例を挙げている。

ただ、いまのところ、トランプの行動は国家安全保障の領域とは無関係に推し進められているように思われる。「主に国内政策の問題に関してホワイトハウスに大きな権限を集中させるために、議会が行政府のなかにつくった独立のポケットを踏みつぶそうとしている」、とNYTは指摘する。それは、憲法を「生きている」文書として解釈するアプローチ、すなわち、憲法の規定は、近代化する国家に合わせて柔軟に解釈されるべきであるという考え方を採用した左派の法理論家たちへの挑戦というべきものだ。つまり、トランプは、「原初の憲法に戻る能力を制限してきた法的パラダイムを破棄するか、再考する急進的な姿勢」を貫こうとしているようにみえる。この行動は革命的価値をもつのではないか。

 

「ネオ・トランプ革命」と気づき

この憲法理論への挑戦は、日常生活ではまったく意識しなかった、あらゆる分野に関連した新たな気づきを人々にもたらすはずだ。ネオ・トランプ革命は、日ごろの秩序や価値観に浸りきってきた人々が気づかない「嘘」や「インチキ」に気づきを与え、自分たちを取り巻く周辺について別の角度からながめてみる機会をもたらしてくれているように思える。つまり、「壊す人」のおかげで、日ごろ、私たちをだましてきた人(「騙す人」)のインチキを炙り出し、その不正を暴いてくれているのである。

もちろん、それは、多くの人にとって「常識外れ」な印象を与えるかもしれない。それゆえに、「壊す人」、すなわちトランプへの反発は激しい。しかし、それもトランプの真意を知ろうとしないからかもしれない。たとえば、「常識」について、拙著『サイバー空間における覇権争奪』のなかで、イタリアのマルクス主義哲学者グラムシについて次のように書いたことがある。

「グラムシは常識と翻訳されることの多い〝common sense〟(イタリア語でsenso comune)に注目する。このとき彼が力点を置いたのはcommon の側であり、そこで重要なのは集団的で社会の有力な要素となった意見の総体であり、ラディカルな変革をもたらしうる政治運動を動員する「知恵」なのだ。とくに、社会・政治・経済・地理的に阻害された従属者である「サバルタン」のような人々に働きかけ、彼らにとっての「真実」をグラムシのいうcommon sense として提示し際限なく繰り返すことで、彼らにcommon sense として受け入れてもらえれば、彼らの支持は絶大となる。このとき、真実に基づく論拠はいらない。

このやり方こそ、トランプの手法なのである。」

こうしたトランプのいう常識は、近代以降に誕生した新聞、ラジオ、テレビなどの情報と齟齬がある。新聞もテレビも「嘘」や「インチキ」に溢れていることに気づくはずだ。そう、主要マスメディアは必ずしも信じるに値しない。それらは「騙す人」だからだ。「騙す人」を信じてしまうと、だまされるだけでなく、自分がだます側になってしまう可能性が大いにある。大切なのは、だまされないようにする情報リテラシーを養うことなのだ。その意味で、ネオ・トランプ革命が炙り出す気づきは実に意義深いと言えるだろう。

ここまでの説明を知れば、トランプが2025年1月20日の就任演説で、「私たちはアメリカの完全な復興と常識の革命を始める」と語った意気込みを理解できるのではないか。

 

本書の構成

こんな思いから、本書は、ネオ・トランプ革命が教えてくれる気づきについて説明することで、読者にその意義を知ってもらうことをねらいとしている。ネオ・トランプ革命を積極的に評価することで、この気づきを活かして、読者の人生をより豊かなものにしてほしいのだ。

本書では、第一章でネオ・トランプ革命の全体像について説明する。就任以来、矢継ぎ早に打ち出される諸政策のために、トランプ革命の内実が判然としなくなっている。そこで、最初に、ネオ・トランプ革命そのものを知ってほしいと思う。

第二章から第四章までは、芸術、言語、科学の「政治化」について論じる。ネオ・トランプ革命は、こうしたさまざまな分野が政治と深く関連していることを教えてくれている。安閑としていると、そこに潜む意図や悪意に気づかぬまま、ある特定の方向に誘導されかねないことに気づいてほしい。

第五章は「トランプ関税」を取り上げる。一方的な保護関税政策だが、それは、これまでの自由貿易制度への挑戦でもある。世界経済全体におよぼす影響は甚大だが、その実態について考えみたい。

第六章では、ウクライナ戦争にかかわる問題をネオ・トランプ革命に関連づけながら論じる。戦争の迅速な停戦を求めるトランプに対して、戦争継続を主張しているゼレンスキーの肩をもつオールドメディアのひどさに気づいてほしい。

第七章では、鉱物資源の争奪戦について論じたい。この争奪戦は「帝国主義=アメリカ」という視点に立てば、当たり前のことだが、グリーンランドやウクライナをめぐって、なぜ鉱物資源をねらうのかを地政学・地経学の観点から考察する。

第八章は、「リベラルデモクラシーの仮面を剥ぐ」という副題をもつ拙著『帝国主義アメリカの野望』において剔出したリベラルデモクラシーのインチキについて、ネオ・トランプ革命が教えてくれていると論じる。トランプは、リベラルデモクラシーを海外に輸出するために税金を投入してきた「米国際開発庁」(USAID)や「全米民主主義基金」(NED)への攻撃を開始した。まさに、リベラルデモクラシーの「仮面」を剥ごうとしていることになる。そもそも、民主主義は虚妄にすぎず、輸出するようなものではない。

第九章では、「復讐・報復」について論じる。ネオ・トランプ革命は、2020年11月の大統領選において、トランプ落選に加担した者たちへの復讐・報復という側面をもっている。トランプの恨みがネオ・トランプ革命の推進力になっている以上、この問題を避けて通るわけにはゆかない。拙著『復讐としてのウクライナ戦争』の副題は、「戦争の政治哲学:それぞれの正義と復讐・報復・制裁」であったから、本書で再論しておきたいのだ。おそらくこの章は、ネオ・トランプ革命がまわりまわって気づかせてくれる、最深部にある問題を論じている部分だ。

第十章は、「新しい地政学の地平」として、ネオ・トランプ革命がおよぼす世界全体のヘゲモニー争奪について考えたい。とくに、核兵器の拡散について俎上にあげている。

なお、本書では一部の出典を省いたが、電子書籍版には、必要部分をタップすれば参考文献に到達できるようにURL を埋め込んである。参考文献まで知りたいという読者はそちらを参考にしてほしい。

 

 

 

 

最後に、オールドメディアを目の敵にする態度をとっていると、必ずや報復の対象にされかねない。本を上梓するにしても、さまざまな妨害に出合う。そこで、今回は、出版社が「キャンプファイヤー」というクラウドファンディングに頼ることにした(下をURL)。この論考を読んだうえで、支援をいただけるのであれば、アクセスしてほしい。拙著の送付と講演会への招待があるらしい。そして、できるだけ多くの善意の人々に拡散してほしいと願っている。

https://camp-fire.jp/projects/847233/view?list=publishing_popular

 

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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