『君たちはどう働くか』
少しだけ時間が空いたので、昔書いた原稿を読む機会があった。『君たちはどう働くか』(仮題)という本用の原稿である。久し振りに読み返してみて、なかなかよく勉強していたなあ、と感じさせるものだったので、ここで紹介しておきたい。
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まず強調したいのは、「労働」(labor)と「仕事」(work)の差についてである。多くの人々は、マルクスは「労働からの解放」を求め、それがロシア革命の原動力になったと考えている。しかしぼくには、そもそもこの発想自体が間違えているように思える。図式的に言えば、ギリシャ時代、生命を維持するための活動である労働(labor)は人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力で、生命の必要物、つまり、個体の生存と同時に種の継続にも必要なものを保護・保証する領域としての私的領域にあった。他方、人間の非自然性に対応する活動力で、生命を超えて永続する「世界」をつくる工作物をつくる活動である仕事(work)は万人によって見られる公的領域において、こうした人間の工作物や人間の手が作った製作物に結びついている存在していた。つまり、労働と仕事はまったく別の活動なのだ。この点こそ決定的に重要であると強調したい。
ギリシャ時代、家事労働はまさに労働として認識されていた。生活の私的領域である家族(オイキア)の領域は、なにものかを奪われている(deprived)状態を意味する私生活(プライバシー)として意識されていた。これはある場合には、人間の能力のうちで最も高く、最も人間的な能力さえ奪われている状態を意味している。私的生活だけを送る人間や、奴隷のように公的領域に入ることを許されていない人間、あるいは野蛮人のように公的領域を樹立しようとさえしない人間は完全な人間ではないとみなされたわけである。そうした私的領域での家事労働こそ「労働」であったことになる。産業資本主義の勃興によって賃労働が増加すると、この労働力を売って賃金を稼ぐ者こそ労働者ということになり、家事労働は不払いの労働として一段と蔑まれるようになるのだ。
こうした歴史的背景があったために、育児で忙しく外へ働きに出られない者を差別したり、児童手当を受給しながら子育てに専念せざるをえないシングルマザーに冷たい視線が向けられたりしてきたわけである。ただ、家事労働こそ本来の労働であるとみなせば、家事労働に従事する者はりっぱな労働者ということになる。
苦痛としての労働
政治学者ハンナ・アーレントが指摘するように、「労働」を意味するヨーロッパ語である、ラテン語と英語のlabor、ギリシャ語のponos、フランス語のtravail、ドイツ語のArbeitは苦痛と努力を意味しており、生みの苦しみを表わすのにも用いられている。Laborはlabare(「重荷でよろめく」と同じ語源であり、ponosとArbeitは「貧困」と同じ語源だ(ギリシャ語ではpenia、ドイツ語ではArmut)。ギリシャ語はponeinとegazesthaiを区別し、ラテン語はlaborareとfacereあるいはfabricari――この二つは同じ語源をもつ――を区別する。フランス語ではtravaillerとouvrer、ドイツ語ではarbeitenとwerkenが区別されている。これらのすべての事例において、ただ「労働(レイバー)」に相当する語だけが苦痛とか困難という明白な意味をもっているのだ。ドイツ語のArbeitは、もともと農奴によって行われた農業労働だけを指し、Werkといわれた職人の仕事には適用されなかった。フランス語のtravaillerは、それ以前のlabourerに取って代わったものだが、一種の拷問であるtripaliumからきている。
労働の全面化
歴史が進むにつれて、労働は、隠れた場所から、それが組織され「分化される」公的領域へと連れ出されたと、アーレントは説明している。私的領域に閉じ込められていた労働は分業を通じて、公的領域に「解放」されたかにみえる。しかしその過程で、公的領域にかかわってきた仕事は抑圧されて、労働と仕事との区別が薄れ、労働が全面化するのだ。私的所有に基づく公的領域の再構築がはかられることになる。つまり、仕事と思われていた作業と、家庭内部に限られていた労働の区別が薄れ、結果的にどんどん仕事として意識される「公的」な活動が少なくなってゆくのである。
ただし、ここで括目すべきなのは、中世における労働日の少なさだ。アーレントによれば、中世、人びとは一年の半分以上も働かなったと計算されている。公的な祝祭日は百四十二日あった。労働日の恐ろしいほどの延長は産業革命の初期に特徴的であり、当時労働者は新しく導入された機械と競争しなければならなかったのだ。だからこそ、トマス・モアに代表される初期のユートピア思想にあっては、労働は注目されていない。そもそも苦痛な労働はあまりなかったわけだから、一六世紀に『ユートピア』をラテン語で出版したモアにとっては、労働のない世界を夢みる必要などなかったわけだ。
「ユートピア」の真実
「ユートピア」という言葉に注目すると、Utopiaは、ギリシャ語の否定辞 ού(ou, 無)とτόπος(topos, 場所)とを組み合わせた造語で、存在しない場所を意味している。同時に、εύ τόπος(eu topos)、すなわち「幸福な場所」、「楽園」という意味をあわせもっていた。重要なことは、テキスト自体はその国の存在を主張しているのだが、当の国の命名や作品の題はその存在を否定している点である。それどころか、その国を見てきた航海者ラファエル・ヒュトロダエウス(Hythlodaeus)の名前のなかに「法螺」「熟達した」という意味が含まれており、「法螺話の大家」くらいの意味が暗示されている。そう考えると、「ユートピア」を「空想」と訳したのでは、法螺話のおかしさやユーモアが抜け落ちてしまうように思われる。
『ユートピア』は、アメリゴ・ヴェスプッチの新大陸探検に加わった架空の人物であるヒュトロダエウスが見聞した架空の新世界の諸国、とくにユートピアについて、かれと文中のモアとペーター・ヒレスがヨーロッパ社会と比較しながら語り合うという鼎談形式をとっている。その構成は二部に分かれ、第一巻は当時のヨーロッパ社会、第二巻はユートピア社会の記述からなる。このようにして現実のキリスト教社会と架空の異教徒のユートピア社会とを比較することで、前者の悪弊を摘発し、その改革を当時の知識人、政府の高官に訴えたものだった。
『ユートピア』では、睡眠に八時間、労働に六時間が割り当てられている。残りの時間は自由に使うことができる。それが可能なのは奴隷がいるからだ。軽い罪を犯した人を奴隷身分に落とすことで、牛の屠殺などの汚い労働、賤しい労働、辛い労働を奴隷にさせようとしたのだ。結婚式を挙げる前には、花婿と花嫁が裸で体面する(双方の欠陥のないことを確認するためだと言う)。離婚は姦通および虐待があった場合であり、姦通を犯した者は奴隷とされ、二度と結婚が許されない。ユートピア人にとっての最高の幸福は快楽であり、その快楽には心の快楽もあれば肉体の快楽もある。とくに、ユートピア人がもっとも尊重するのは心の快楽だ。具体的な心の快楽は知識や真理を求めて思索をめぐらせるときの喜びに見出され、有意義な生活を送ったと楽しく思い出にふけることも心の快楽なのだ。他方、肉体の快楽には二種類ある。第一は飲食を通じて体の各器官に熱量を補充するといったかたちで感覚的に直接に感じられるものであり、第二は病苦に苦しめられ悩まされることのない各人本来の健康である。
重要なことは、ここでのユートピア人が労働からの解放といった問題ではなく、「公共生活に必要な職業と仕事から少しでも割きうる余暇があれば、市民はそのすべての時間を肉体的な奉仕から精神の自由な活動と教養にあてなければならない」ことが重視されていた点にある。人生の幸福がこの精神の自由な活動にあると信じていたのであり、「人間として最大限に成長すること」に関心をいだいていたことになる。その過程に最高の幸福としての快楽をより多く見出せると信じていたことになるのだ。
理想郷への徹底した洞察
アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読むと、かれは、人々が幸福こそ人間にとっての最良の生活であることに一般的に合意し、幸福を生活の目的や最終的目標にしていることに注意を払っている。古代ギリシャ時代においては、善が「善く生きること」に、換言すれば、各個人の自己実現としての「幸福」に直結するものとみなされていた。そこには、理想を求めてやまないギリシャ人の目的志向があった。ただ、それはともすれば身勝手な「自愛」、自己本位の善の追求と受け取られかねない。こうした見方に異論を唱えたのがキリストだ。イエスの唱えた善行は匿名性の無私であり、自己放棄であったのである。
善が存在しうるのは、ただ、その行為者でさえそれに気づかないときだけであるというのがキリストのいう絶対的善である。これは、他者と積極的に交わりながら自己本位の善を自己実現としての幸福と感じる古代ギリシャ人の生き方とはまったく異なっている。キリスト教を信じる宗教的人間は、その善行が世界とも自己とも隔離された寂寥たる孤独を生きなければならない。この底なしの空無に耐えることは困難だが、絶対的善を唯一認証しうる「神」という絶対者が臨在してこそ、なんとかこの善をめざすことができるのだ。宗教的レベルでは、この善こそもっとも積極的な理想となる。しかし政治的レベルでは、善の理想が現実において肯定されたとたん、「否定的・破壊的」に働いてしまう。善は公然と行われるものではない以上、政治の次元で善を理想とすることには欺瞞がある。この「反転」こそ、決定的に重要な点なのである。



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