「万引き家族」を観て

万引き家族を観て

7月9日に「万引き家族」を観てきました。なかなか興味深い内容でした。一番強く印象に残ったのは「家族」の問題でしょうか。

血縁のない二人が「つがい」を形成して、その血を受け継いだ子どもが生まれて母親や父親になると考えがちですが、「子どもを産んだだけでは母親にはなれない」し、父親も同じです。こんなセリフが印象に残りました。

それは、「生まれただけでは個人になれない」のと同じです。教育や訓練を受けなければ、母親にも父親にも、そして個人にもなれないのです。しかし、こうした根本的な事実に気づいていない人が多すぎます。

「子どもは親を選べない」わけですが、子どもが親を選んでも、そう簡単に血縁を超えることはできないことも、この映画は教えてくれています。それは、単独者たる個人同士が結びついても、血縁を超えるほどの結束につながるわけではないということです。

それでも、個人の選択によって生まれた組織は、個人の自由意思に基づいています。その判断が誤っていると感じたら、逃げればいいのです。

本当は家族にも同じことが言えるのではないかという仮説が生まれます。ただ、血縁を信じて疑わない人があまりにも多すぎます。これは、自己を鍛錬すれば、それが家族を斉(ととの)えることにつながり、ひいては国の安寧をもたらすと考える朱子学の主張に通底するものですね。わたしは、こうした見方に与しません。

日本人は家族が国家によってさまざまな形態に変えられてきた事実を学校教育で教えられていません。そこに、国の徴兵制や住宅政策、人口政策が深く関与してきたことも知らない人がほとんどかもしれません。

その結果として、血縁でつながった者がいっしょに暮らすことが当然と思っている人が圧倒的に多くなる。しかし、本当でしょうか。この問いかけは実に重い。

その昔、「イエスの箱舟」という集団がお茶の間の話題を集めたことがあります。1979年から1980年に、千石(せんごく)剛(たけ)賢(よし)という人物が主宰する聖書の勉強会を母体とする集団、「イエスの箱舟」がマスメディアからバッシングを受けるという事件が起きました。なぜかというと、信者のなかには家庭を捨てて共同生活をする者が現われたからでした。まさに、単独者たる個人同士が友愛のもとに結束し合う集団が誕生したのです。

ところが、捨てられた家族は一般人の枠から一歩も出てない人々であり、かれらには自分の子どもが騙されていると映りました。そのため、家族は捜索願を出すだけでなく、マスメディアに助けを求めました。こうして、『婦人公論』に「仙石イエス、わが娘を返せ」という手記が掲載され、その後、産経新聞も反イエスの箱舟キャンペーンを開始するのです。さらに、政治家が国会でも取り上げるようになります。結局、千石は警察に出頭し、事情を説明、逮捕されることはありませんでした。そのため、バッシングは次第に収まりました。2017年に入って、「爆報!THEフライデー」(TBS)という番組でこの問題が取り上げられましたが、いまでも信者で共同生活をつづけている人々は実に充実した人生をおくっているように見えました。

無知なマスメディア、バカな政治家は家族について考えたことがないのでしょう。本当に困った事態なのですが、そうした無知でバカな人々がいまでもほとんどなのです。国家が「家族の真実」を教えないために、多くの人々が騙されているのです。

実は、同じようなことが「オウム真理教」でも起きました。出家してオウム真理教の集団で共同生活をする信者が増えれば増えるほど、残された家族が増え、麻原彰晃(本名・松本智津夫)を中心とするオウム真理教の集団に騙されているとか、無理やり拉致・監禁されているといった見方が広がったのです。実際、出家信者が脱会しようとしても、無理やりに連れも出されたり、あるいは殺されたりする事件でした。しかし、自主的に単独者となり、出家の道を選択した者も少なからずいたのはたしかです。

単独者たる個人になって、単独者同士が助け合い、兄弟愛を育む集団に属すること自体はまったく問題はないと、わたしには思われます。問題はその集団の閉鎖性にあるだけでなく、厳しく言えば、「捨てられた」家族の無知にもあるのです。

一般人は、自分たちがまったく正常な生活を営んでいる真っ当な「市民」であると教え込まれています。「法の支配」(rule of law)のもとで、日本国民として家族を大切にし、学校や会社に属し、税金を支払い、お天道様に顔向けできないような行為からはほど遠い暮らしをしていると信じています。わたしはそうした人々を批判するつもりはまったくありません。そうした暮らしのなかには、悲しみや苦しみもあるかもしれないが、喜びや楽しみもあるはずで、それなりの人生を十分に全うすることができるでしょう。

しかし、そうした生き方は少なくとも坂本龍馬の生き方は違います。龍馬のように、21世紀を生き抜きたいと願うのであれば、単独者たる個人をめざすという生き方を選ぶ必要があります。同時に、捨てられた家族は自分たちが一般人として生きていることを自覚しつつ、単独者の生き方を認める必要があるのです。少なくとも龍馬の家族うち、姉乙女や兄権平は単独者として生きる龍馬を認めていたに違いありません。心から応援していたでしょう。

一般人の側が人間の生き方の違いを知らないから、あるいは、自分たち一般人の生き方がすべてであると誤解しているから、問題が起きるわけですね。もちろん、一般人にこうした誤解を迫っている元凶は国家であり、国家と結びついている政治家、官僚、学者、マスコミ関係者がそれを支えています。

その意味で、家族の問題は圧倒的な誤解が支配的な状況のなかで「窒息状態」にあります。この閉塞感に「万引き家族」がなにかしらの風穴を開けてくれればいいと心から願っています。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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