感慨:2019年

感慨:2019

しばらくこのサイトへのアップロードをさぼっていました。「論座」への寄稿で忙しかったせいもあります(https://webronza.asahi.com/authors/2019092600002.html)。2019年12月29日、5時間ほどかけて菅付雅信著『動物と機械から離れて:AIが変える世界と人間の未来』を読了したので、この本を紹介しつつ、2019年を振り返ってみたいと思います。

わたしは2020年後期の授業で、「最先端の海外事情」なる授業をする予定でいます。そのため、いまからITにかかわるさまざまな出来事について情報収集する必要に迫られています。その意味で、『動物と機械から離れて』は新しい世界の動向を知るうえで、大いに役に立ちました。ぜひとも、この授業の補助教材として活用したいと考えています。

 

1. 現在進行する人間と機械の一体化

いくつか、わたしがラインマーカーを引いた部分を紹介しましょう。9頁につぎのような文章があります。

「しかし、現在進行する人間と機械の一体化は、一方で人間の動物化を招く。己の自由意志で決断し行動するのではなく、機械が指し示す情報に沿って行動するだけで、日常の多くの物事がそつなく完了する状態に、わたしたちは生きている。「我思う、ゆえに我あり」ではなく、AIの膨大なレコメンド情報に従って行動する「我従う、ゆえに我あり」の状態になりつつあるのだ」というのがそれです。

「人間の機械化」、「人間の動物化」という表現は、人間がもつ「自由意志」がAIによって浸食されて動物のように「自由意志」がなくなってしまう状況への警句です。一応、経済学を専攻してきたわたしとしては、すぐに最近の行動経済学のことが思い浮かびます。わたしは拙文のなかでつぎのように書いたことがあります。少し長いですが、引用してみましょう。

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「人間が「動物的」であることが経済学でも関心を集めている。それが行動経済学と呼ばれるものである。人間の行動をつぶさに観察してみると、費用(cost)と便益(benefit)を比較考量したうえで、便益の多いほうの行為を選択するという、いわゆる合理的選択をいつも行っているわけでは決してないからだ。この行動経済学の考え方は、人間は合理的選択をしている経済人であるという前提にたって、人間の意思決定そのものよりむしろ、その結果やその適切さに注目してきた新古典派経済学の非現実性を反省するところから出発している。人間は動物であり、その動物たる人間の行動がいつどこでも必ずしも合理的に決定されるわけではないという、より現実的な認識にたつのである。

ありふれた人間という動物の行動パターンに注目するのだ。経済人を前提にすると、合理的になされる行動結果だけに関心を集中すればよかったのだが、ふつうの人間を考えると、必ずしも合理的な選択をするわけではないから、行動過程に注目し、その過程で人間が心理的に受ける影響を考慮する必要性が生まれる。

そこですぐに気づくのは、人間が行うさまざまな行為のなかで、人間は本当は、あまり選択の自由を意識することはなく、惰性や同調といった直観的で自動的とも言える思考をしているにすぎないということだ。つまり、無意識下での行動が人間の行動の多くを占めていることに気づいたわけである。ここでは、こうした人間の「現実」に関する行動経済学が教えてくれる知見を紹介し、「大文字の主体」に対する疑問がすでに広まっていることを明らかにしたい。

行動経済学では、直観的で自動的な思考を「自動システム」、熟考的で合理的と思われる思考を「熟慮システム」と呼んでいる。自動システムは本能的で、素早い反応を意味し、熟慮システムは意識的でゆっくりした判断を意味している。そのため、自動システムでは、不自由を意識化したうえで、つまり、複数の選択肢の存在をたしかめたうえで、そのなかから一つを選ぶという、自由を意図的に行うというよりも、直観的に行動するという側面が強い。つまり、無意識による反応を前提にしている。これに対して、熟慮システムでは、複数の選択肢の存在を意識化し、そのなかで最善なものを選ぶという合理的と思える選択の自由が行使されやすいように思われる。つまり、主体を前提としていることになる。

だが、人間の行動そのものは、自動システムも熟慮システムも基本的には経験則(Rules of Thumb)からの類推として働いている。人間の思考は、「アンカリング」、「利用可能性」、「代表性」という三つのヒューリスティクス(経験則)と、それぞれに関連するバイアスからなっているとみなすことができる(Thaler & Sunstein, 2008, p. 23=2008, p. 44)。アンカリングは、アンカー(自分の知っている数字)を起点にして、自分が適切だと思う方向に調整することを意味している、利用可能性は、自分が利用できたり入手したりしやすい要素を手掛かりにして考えることを意味している。このため、身近に感じられる出来事により大きなリスクを感じてしまう。代表性は、いわば類似性に着目して、類似物に他の対象を代表させて考えることを意味している。ドイツ軍によって爆撃を受けたロンドン市民は、その着弾地点の類似性に注目して、つぎの攻撃の着弾地点を予測して攻撃から逃れようとしたというのだが、実際には、ドイツ軍はランダムに攻撃しただけであった。だが、代表性という思考傾向から、人々は事実と関係のない思考に没頭する。

こうした人間の思考は、自動システムだけでなく、熟慮システムにもあてはまる傾向である点に注意しなければならない。この両方のシステムには、「損失回避」(Loss Aversion)がつきまとっていたり、「現状維持のバイアス」(Status Quo Bias)があったりする。離婚率が上昇しているという現実を前にしても、結婚直前に、自分たちのカップルだけは離婚することはないと信じて疑わない、というところに楽観主義、損失回避の傾向がある。携帯電話がまだ普及していない初期の段階で、携帯電話を実質無償とし、契約後の利用料でその代金を回収しようとしたのは、一度、契約すると人々が当面、携帯電話を解約しないだろうと予測できたからであった。

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こんなことを知っているわたしからみると、この人間の動物化という問題はきわめて興味深い問題となっています。

最近、わたしはこのサイトで「優生学」の話を二度アップロードしました。この優生学の起源となったのは、マルサスの人口論なのですが、そこには人間を動物と位置づけ、人間社会を動物と同じようにみる視角がありました。もちろん、人間は動物ですが、人間は人間だけに可能な意識を全面化させた「人間中心主義」を跋扈させたことで、長く無意識を忘れ去り、動物としての人間の宿命に無頓着でした。

ここで、ややうんちくを語っておくと、動物的側面から人間社会に切り込むことで、富と国家を結びつけて考えるアダム・スミス以来の見方に風穴を開けたのが『救民法論』(1786年)を書いたタウンゼンドであったことが大切です。太平洋上のロビンソン・クルーソー島での山羊の急増が私掠船の格好の食糧供給源になっていたため、スペイン政府は犬を島に陸揚げし、山羊の数を減少させた事例を取り上げていることを思い出しましょう。この例から、彼は「人類の数を制限するのは食糧である」として、飢饉が動物を柔順にし、服従と従属を教える面があることに気づいたのです。そこから、貧民を刺激し労働に駆り立てるのは飢饉をおいてないとまで結論するのです。つまり、人間の営みに新たな法則の概念である自然法則を持ち込んだわけですね。ホッブズとの対比で言えば、ホッブズは、人間が獣に似ているがゆえに、独裁的君主が必要だと主張したのに対して、タウンゼンドは、人間が実際に獣であること、そしてそれゆえにこそ、最小の政府しか必要ないと主張したことになります。この視角を得たからこそ、人間の生物学的本性を取り込んだマルサスの人口論などが生まれることになったと考えられるのです。

 

意識という難問

もう一つ、意識の問題も気になります。拙著『官僚の世界史』にも書いたことですが、意識の問題は人類にとって難問であり、いま現在、意識が何を意味するかさえわかっていません。わたしはつぎのように書いておきました。

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「意識」は、①物質の属性にまで還元できるとする新実在論(内観において感じる主観的状態は系統発生的な進化をさかのぼれば、相互に作用する物質の基本的な属性にまでたどることができ、意識と意識されているものとの関係は天体間の重力の関係とすら変わらない)、②あらゆる生命体の基本的属性であり、単細胞動物の感応性が腔腸動物、原索動物、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、人類へと進化した結果であると考える、③意識の発生は物質とともにではなく、動物の誕生とともにでもなく、生命がある程度進化した特定の時点であったとみなし、その出現の判断規準として、経験によってあるものが他のものへと結びつく「連合記憶」がうまれる起源を重視する、④単純な自然淘汰によって生物学的に進化した連続性の結果として生まれたのではなく、言語を話し、知性をもつ人類と、そうでない類人猿との間に不連続性を認め、そこから意識がうまれたとみなす、⑤動物は進化し、その過程で神経系やその機械的反射作用の複雑性が増し、神経がある一定の複雑性に達すると、意識が発生するとみなす、⑥物質のあらゆる属性は、その物質が誕生する前の不特定の要素から創発したもので、生命体特有の属性は複雑な分子から創発し、意識は生命体から創発したと考える、⑦すべての行動はいくつかの反射とそれから派生した条件反射に還元でき、意識は存在しないという行動主義、⑧脊髄の上端から脳幹を経由して視床と視床下部へとつながり、そこへ感覚神経と運動神経があつまってきている「網様体」という部位に意識がかかわっているとする――といったさまざまな見方がある」

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この記述は、Jaynes, Julian (1976, 1990) The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind=柴田裕之訳(2005) 『神々の沈黙: 意識の誕生と文明の興亡』紀伊國屋書店からとったものです。わたし自身は、ジェインズにならって、意識は言語に基づいて創造される自分自身の世界であって、意識はどのような反応性に対しても働きかけ、関係ある場面を抜粋し、それらを比喩的な空間で物語化し、まとめて整合化させるとみなしています。

ついでに指摘しておくと、「人間的本質」についてよく考えたマルクスは、人間的本質は「社会的な諸関係の総体(アンサンブル)」(das ensemble der gesellschaftlichen Verhältnisse, the ensemble of the social relations)だ(Marx, 1845)としました。人間は労働過程を通じて人間と自然とが交流し合い、人間の本質を完成し、自然もまたその本質を完成すると考えたのです。つまり、ここでマルクスは人間が自然の一部であり、「人間はそのまま自然的存在である」ことを明確に意識していたことになります。だからこそ、「動物的なものが人間的なものになり、そして人間的なものが動物的なものになっている」(Das Tierische wird das Menschliche und das Menschliche das Tierische.)とのべています(Marx, 1844)。ヘーゲルは、人間が対象に働きかけるなかで対象によって働きかけられ、より高次の人間に成長してゆく能動性に着目したのですが、その働きかけ(労働)を行う主体は「抽象的な精神」にすぎず、感性的=人間的活動としてとらえられていないと、マルクスは批判したわけです。

 

2. 日本のアドバンテージ

114頁にはつぎのような記述があります。

「アメリカの利益主導、ヨーロッパの個人の権利主導、そして中国の共産的価値観とも異なる立場でAIを捉え、排他的でなく、包摂的なものに開発していくこと。そこに日本の、いい意味での中途半端かつ中立的なアドバンテージがあるのではないだろうか。」

わたしはこの主張を首肯しません。日本のアドバンテージを議論できるほど、日本政府は進んでいないからです。個別の日本人のなかには、優れた発想や考えをもっている人がいるのでしょうが、日本政府を支える官僚はあまりにも不勉強であり、日本のIT教育はまったくダメです。

先日、高知大学の学生に尋ねて驚いたのは、「クッキー」という言葉の意味さえ知らないのにはあきれるばかりでした。これでは、プライバシーの保護についてまったく議論できません。なお、2020年1月に、「論座」において、この問題を取り上げるつもりですから、ぜひ読んでほしいと思います。

 

3. 「セレンディピティ」

わたしは「センレンディピティ」(serendipity)という言葉を知りませんでした。117~118頁につぎのように書かれています。「すべてのことがあらかじめ予想された明日という、安全なような、息詰まるような社会の到来が視野に入るつつあるなかで、偶然性、それも「セレンディピティ」(偶然の発見)をどう組み込んでいくかという視点が近年求められるようになっている」というのです。

わたしは、偶然の一致を意味する「コインシデンス」(coincidence)という言葉や、偶有性を意味する「コンティンジェンシー」(contingency)という単語は以前から重視してきました。たとえば、拙著『官僚の世界史』のなかでも、「偶有性(contingency)の徹底」としてつぎのように記述しました。

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ここまでの議論を別の角度から説明したい。それは、他でもありえたかもしれない可能性を意味する偶有性(contingency)の徹底という視角である。民主主義は、複数の選択肢のなかからある一つの選択肢を民意によって選ぶ手続きの問題なのだから、まず、別の偶然があるかもしれないという偶有性を徹底的に想定し、そこから選択するという自由を確保しなければならない。つまり、民主主義の改革には、偶有性と自由の徹底が必要と考えられる。あるいは、「主体=私」を疑うことは、意識をもつ「私」が無意識や身体を含む「自分」を必ずしも代表しておらず、別の「私」ないし別の「自分」がいるかもしれないという偶有性に気づくことを意味している。あるいは、それは、「主体=私」が共同主観性を前提とした共同体の価値観を押し付けられたところにしか成立しない受動的なものであることを意識し、そうではない「この私」という、単独の「主体=私」を取り戻す反覆を繰り返すことの重要性につながっている。他方で、「主権=公」を疑うことは、国家主権が一つの主権から成り立っているわけではなく、別の意志決定もありうるという偶有性に気づくことを意味している。あるいは、「主権=公」がキリスト教的な共同体を出発点とした同質的な複数の共同体を前提に構想された虚妄でしかないことに気づく必要性を示している。

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こんな問題意識をもつわたしからすると、『WE ARE DATA――アルゴリズムが「私」を決める』(2017年)の著者ジョン・チェリー=リッポルドが「データの幽霊」と名づけた、「検索履歴やスマホの位置情報から自動的に生成され、刻々と変貌しながらデジタル空間をさまよう〈わたし〉」の危険性についてよく考えてみる必要があるでしょう。

 

4. 地政学上の課題

わたしは一応、近年、地政学について研究しています。近著『サイバー空間における覇権争奪』(社会評論社、2019年)がその一つですが、地政学上の課題を考えるうえで、重要なのはベンジャミン・ブラットン著The Stackです。この本を紹介した記述が140頁にあります。

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『The Stack』でブラットンは、この地球は「ユーザー/インターフェース/アドレス/都市/クラウド/地球」という六つのレイヤーによっておおわれていると主張した。

「わたしは地球規模のネットワークを六つのレイヤーによって定義し、このメガ・インフラストラクチャーが、政治地理学や国境のあり方を変容させ、国境を越えたつながりを生み出していると考えています。情報環境をまとまったアーキテクチャ・モデルとして考え、六つのレイヤーに分類しているのです」

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こうした視点に関心のある者は、『宇宙学と現代社会:地球人・宇宙人に』(日本プロセス、2017年)といった本があることを紹介しておきたいと思います。

拙文には、「宇宙精神」というのがあって、Семёнова, С.Г. &Гачева (1993) Руссуийкосмизм: Антологияфилософскоймысли=(1997) 西中村浩訳,『ロシアの宇宙精神』せりか書房を紹介したことがあります。以下に、紹介しましょう。例によって、縦書き用に書いたものをそのまま横にしておきます。

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ここで、「人間中心主義をとらないブッダの教えに帰れ」と主張するつもりはない。個人が主体性を確立できずにうすっぺらな存在になりつつある現在、人間自体が断片化されつつあるように思える。こうした二一世紀の特徴が人間中心主義に揺さぶりをかけているとしても、いきなり仏教のいう「縁起」に基づいて、「自我を滅却せよ」などと主張するつもりはない。ただ、人間中心主義や理性主義に基づかない正義論を模索する必要性を示唆する考え方があり、そうした考え方に今後、注目する必要があることだけは本書において、しっかりと指摘しておきたいと思う。

 

マルクス、ニーチェ

ヘーゲルによって絶対化されたかにみえる人間中心主義の批判からマルクスが出発したことはよく知られている(木田1995)。それは、「貫徹された自然主義」すなわち「人間主義」への批判として現れている。ヘーゲルは、人間が対象に働きかけるなかで対象によって働きかけられ、より高次の人間に成長してゆく能動性に着目したのだが、その働きかけ(労働)を行う主体は「抽象的な精神」にすぎず、感性的=人間的活動としてとらえられていないと、マルクスは批判したわけだ。ゆえに、マルクスは、労働過程を通じて人間と自然とが交流し合い、人間は人間の本質を完成し、自然もまたその本質を完成すると考えたというのだ(木田1995)。ここで、マルクスは人間が自然の一部であり、「人間はそのまま自然的存在である」と明確に主張している。人間中心主義をはっきりと批判しているのだ。だから、マルクスは人間存在を自然とならぶ「類的存在」(Gattungswesen)と呼んでいる。

一方、ニーチェはプラトン以前のギリシャ思想から、自然に対する根源的な見方を学び、その根源的自然の概念を回復して、この現実的自然だけを唯一の実在と認め、この自然だけを原理にして存在の意味を基礎づける、新しい存在論が必要であると主張した。そうすれば、人間中心主義をその淵源から批判できることになる。

 

ロシアの宇宙精神

つぎに、ちっぽけな人間を自覚するうえで、宇宙にまで広げて思考する試みについて考えたい。ロシアにその端緒を見出すことができるからだ。それはセミョーノヴァ・ガーチェヴァ編著『ロシアの宇宙精神』(西中村浩訳、せりか書房)にある。人間は、古代の宗教や神話において、人間がその存在と宇宙の存在との間に相互関係があることに気づいていた。しかし、その後、ものを細かく分別し、分子、原子、量子へと分析する科学の進歩におかげで、こうした人間と宇宙との間の関係が見失われてしまった。だが、一八六三年から一九四五年まで生きた、ロシアのヴェルナツキイは、「生きた自然」と「生命のない自然」を、一つの全体をなす相互関係のなかで統一的にとらえる努力をした。彼の師は土壌学を研究したドクチャーエフであった。ドクチャーエフは、土壌が一定の時間の流れのなかで、植物と動物の組織の生命活動を中心とする多くの要因が合わさって作用した結果、できあがったことを証明したことで知られている。こうした地質学的な観点から、ヴェルナツキイは、人間の発生を「地質学的な歴史において唯一のもの」ととらえる。

そのうえで、かれは、生命現象に「生命」という概念を代わりとして、「生きた物質」という概念を導入する。「生きた物質」は生きた有機体の集合体であり、地球の場合、陸地の表面の対流圏の、多少とも密になった薄い膜(森や野)のなかに集中し、大洋全体に入り込んでいる。この「生きた物質」の一部が人類ということになる。ゆえに、全人類(個々の人間は人類全体と不可分に結びついている)は生命圏(人類が生きている惑星のある一定部分)と分かちがたく結びついている。人間は惑星の物資・エネルギー構造と、地質学的な法則に基づいて結びついている。つまり、現実には、地球上で自由な状態にある「生きた物質」は一つもないのであって、有機体はすべて、まず栄養摂取と呼吸によって、周囲の物質・エネルギー環境と不可分に連続的に結びついているのだ。

一方で、「生きた物質」の量が生物圏(人間が生きている惑星のある一定部分)にある大量の不活性の物質と生物学的に不活性の物質に比べて減少していくとすれば、生物起源の鉱物(すなわち「生きた物質」によって作られた物質)は不活性の物質と生物学的に不活性の物質の大部分を占め、生物圏をこえて広がっていることになる。「変成」によって、「生きた物質」は生命の痕跡をすべて失って、花崗岩になり、生命圏の外へ出るのだ。こうして、人間は惑星の物質・エネルギー構造と、地質学的な法則に基づいて結びついていることになる。地球上の有機体はみな、周囲の物質・エネルギー環境と不可分に連続的に結びついているのである。それは、地球という惑星が含まれている宇宙全体とも深い関係性をもっていることを意味している。これは、人間の生死を超えた宇宙とのつながりを示すものであり、仏教でいう「縁起」を想起させるような見方とは言えまいか。

ヴェルナツキイはさらに、個人の自由な思考が人類の生活を規定するようになり、正義についての人類の考え方の規準になっているという。自由に思考する一つの全体となった人類の利益になるように生物圏を作り変えるという問題が提起されており、その新しい生物圏の状態、生物圏が地質学的に経験している段階を「精神圏」と呼んだ。その精神圏が自然の地質過程や自然の法則にしたがったものであれば、安心して未来をみることができると主張している。

ここで紹介したような宇宙精神を説く人物は日本にもいる。岸根卓郎である。彼は『宇宙の意思』のなかで、東洋と西洋の死生観を分析しながら、その統合を言わば、宇宙精神により実現しようとしている(岸根1993)。

こうした宇宙精神は、人間を矮小化することで、人間中心主義をちっぽけなものとして笑い飛ばすことを可能にする。

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『動物と機械から離れて』でラインマーカーを引いた箇所はまだまだありますが、このくらいにしておきましょう。

2019年はわたしにとって、つまらぬ年でした。Dishonest AbeをLock Abe upする日が2020年でありますように。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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