「真実」に近づくということ:ひねくれ者の小唄

長く生きてくると、さまざまな「真実」のようなものに近づくことができる。それは、経験に裏づけられた処世術にも似た話にすぎないが、他者とかかわって生きていかざるをえない以上、多少なりとも役に立つ面がある。ここでは、そんなたわいもない話をしてみたい。

 

医者について

まず、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックに関連して、「医者」について「真実」を語ってみよう。

COVID-19治療のために、自分が感染するかもしれないリスクを冒しながら、たくさんの医者が奮闘していることをりっぱだと思う。ただ、筆者は医者になろうと思ったことはない。

それはなぜか。医者の本質は、人間をモノのようにみなすまなざしにある。ゆえに、医者になるためには、人体のあらゆる部分の名前を理由もなしにひたすら覚えることを基本としている。こんなバカなことをすることに大きな違和感をもっていたから、医者という職業に疑念をもったのだ。

「赤ひげ」のような篤志家は貧民であっても人間として扱い、治療するわけだが、その治療自体は人間をモノとみなす視点にたって施される。思春期に女性の裸を想像することと、患者の肉体を診ることは違う。この悩ましい「矛盾」にどう向き合うべきなのかという問題を前にして、筆者は逃げることにしたわけだ。

後年になって感じるのは、やはり人間をモノとしてみる視線から、カネと関連づけて治療にあたっている医者が多いのではないかということだ。論座に書いた「新型コロナ対策 オンライン診療を推進せよ:患者のニーズに消極的な日本医師会」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020030700002.html)や「「オンライン診療」支援を阻止する自民・医師会:テクノフォビアを脱却して国民の命を守れ」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020031800005.html)で示したように、医者の集団である日本医師会はカネが人間の命よりも優先させている。ここに、医者の「真実」があると、筆者には思われる。

 

法律家について

自分を「法律家」と名乗る者がいる。筆者は弁護士、検察官、裁判官のような法律家をどこかで軽蔑している。少なくとも、自分のことを法律家と名乗るような輩は「信用おけない」と思う。

筆者は法律家になろうと思ったこともない。司法試験など見たこともないし、受けたこともない。

法律用語に知悉することは、いわば人間の個別の事件を一般論に回収してしまう「技」を身につけるだけのことであり、結局、法律家も人間一人ひとりの単独性をみていない。ここでも、人間をモノ化して、法律文書に関連づけて「ことたれり」と割り切っているだけだ。

そうでもしなければ、殺人や離婚となった、人間の本性まるだしの生々しい事件と向き合うことはできない。一定の距離を置くことが不可欠であり、人間のモノ化がどうしても必要になる。

こんな印象から、法律家が好きになれない。とくに、弁護士は「たち」が悪いと感じている。テレビドラマでは、美化されることが多い弁護士だが、実際に彼らが仕事にしていることの多くが離婚や遺産相続などのカネにまつわる案件にすぎない。弁護士出身の政治家が日本に多い理由の一つは、こうした毒々しい仕事よりも、政治家のほうが「楽ちん」な仕事に映るからだろう。しかも、落選しても弁護士として復帰可能だから、腰かけ弁護士から政治家に転身する輩が多いのだ。森まさこ法務大臣はその典型だろう。

しかし、法律にいくら知悉しても、世界の政治・経済・文化について精通することはそう簡単にはできない。日頃、カネにまつわる案件しか取り扱ってこなかった弁護士が優れた政治家になれるとはとても思えない。もちろん、例外はいるかもしれないが。

 

検察官について

ここで、同じく法律家である検察官について考えてみよう。検事総長や検事長らの定年延長を可能にする検察庁法改正案がいま問題になっている。もちろん、検察の行政からの独立性を守るために、こんな法改正はすべきではないDishonest Abeの本性丸出しの恐るべき法案だ。

検察官が国家指導者と結託すれば、その国家における正義は大きく歪められてしまう。実際に、いまのロシアがその典型だろう。

このサイトにおいて、2019年7月6日付「「裁かれざるは悪人のみ」」(https://www.21cryomakai.com/%e9%9b%91%e6%84%9f/779/)と同年10月28日付「深刻な日本の腐敗構造:「裁かれざるは悪人のみ」の世界に」(https://www.21cryomakai.com/%e9%9b%91%e6%84%9f/829/)で、この問題を論じたことがある。ゆえに、ここでは再論しない。アクセスして、内容を吟味してほしい。

 

国家の「嘘」

国家は国家主権を守るために、教育を通じて、さまざまな見方を押しつけている。医者や法律家は「りっぱな人物」とみなす人が多いのも、そうした一環だろう。しかし、それは国家主権を守るための歪んだ見方にすぎない。国家は自らに都合のいい秩序を守るために、「社会的属性」に応じた階層をつくり、国家統治に利用している。

こうした仕組みは近代化の過程で世界中に広まった。ゆえに、世界中の国家が同じような国家主導の統治メカニズムを長くつづけてきた。それを可能にしたのが、「民主主義と近代国家とを結びつけた民主国家であれば、国家主導は正当化される」という信念だ。

しかし、民主主義はせいぜい、自らの住む地域や地方、国家を共同体ととらえて実施されるだけであり、地球上の全人類やその生態全体を考慮しているわけではない。逆に、民主主義は多数決を前提として「住民エゴ」を肯定する考え方だから、COVID-19のような危機に直面すると、この「住民エゴ」が地球上のあちこちで顕在化することになる。それは、民主国家でも、独裁国家でも同じである。

むしろ、独裁国家では、日頃、抑えつけられている住民が立ち上がることで、独裁者が十分に対応できずにいるといった逆説が生じている。その典型がロシアや日本だ。

地球全体の問題としての感染症対策や環境保護問題は、これまでの近代制度では十分に対処できないことがはっきりしつつある。国連に代表される国際機関はどれも主権国家間の覇権争奪の場にすぎない。つまり、既存の国際機関は各国の主権を前提に形成されているから、こんな機関では地球全体の非常時に対処できないのである。

筆者が望むのは、できるだけ多くの人々がこうした「真実」を今回のパンデミックから学んでほしいということだ。近代諸制度はいま、見直しを迫れている。その意味で、国家が押しつけてきた価値観そのものが揺さぶられている。この「真実」に気づいて、新しい考え方を手探りしてほしい。それが21世紀を切り拓く原動力になるはずだから。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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