大塚將司を偲ぶ
「師」と呼ぶことのできる人物として、私には、大塚將司と西村可明がいる。前者が3月に亡くなった。そこで、今回は大塚について語りたい。
新聞記者としての第一歩と邂逅
日本経済新聞社に入社した際、私は東京証券部で債券担当記者になった。主に国債市場の動向から、日本経済をにらむような仕事であった。日経は当時、本紙のほかに『日経公社債情報』という週報を刊行しており、私はこの二つを担当した。
この部署には、大塚、和田、鳴沢、武市といった記者がいた。彼らに、記者としてのノウハウを叩きこまれたのである。最初に訓練されたのは、「債券往来」という市況を書くために、彼ら一人一人の取材に同行し、取材の様子をながめることだった。
いまから思うと、なかなか優れた教育であったと思う。記者によって、取材方法がまったく違うからだ。つまり、比較しながら、だれが優れた取材をしているかがよくわかった。
いま思えば、雨になると、証券会社を回らずに取材をすませる者もいれば、ずぶ濡れになりながらも、野村、日興、山一、大和といった証券会社をきちんと取材する者もいた。あるいは、ほとんど取材することなく、諸般の経済情勢について話すだけの記者もいた。
そうしたなかで、私は大塚を「師」と仰ぐようになる。大塚の「一番弟子」が塩原であると自負している。これが、新聞記者としての第一歩であったのだ。
イトマン事件とリアリズム
中堅商社イトマンの河村良彦元社長と伊藤寿永光元常務、不動産管理会社の許永中代表らが大阪地検特捜部に商法(特別背任)違反などの容疑で一斉に逮捕されたのは、1991年7月だ。この「イトマン事件」と呼ばれる大事件について、日本でもっとも深く取材し、報道してきたのが大塚だ。
私は当時、すでに日経を辞め、一橋大学大学院経済学研究科修士課程を修了し、朝日新聞の記者をしていた。この事件について直接、担当したことはない。ただ、日本銀行の金融記者クラブに所属しながら、大塚の活躍を見守っていたにすぎない。
だが、そうしたなかで、「現実」を知るには、「闇」の世界を覗き込まなければならないことを間接的に教えられた。それが、私にとってのリアリズムの原点となっている。
私が目をつけたのは、興産信用金庫の志津努理事長(当時)だった。どのようにして彼と出会い、親しくなったのかはもはや記憶にない。ただ、銀座にあった「尚ちゃん」という居酒屋の2階で、朝日新聞の金融記者クラブ記者全員が彼を接待し、二次会に誘われて、私だけが同行したという記憶だけが鮮明に残っている。
向かったのは、銀座のクラブ3軒だった。まず、「姫」である。山口洋子の開いた店である。当日、性転換して有名だったカルーセル麻紀が出番だった。志津と麻紀は親しいらしく、左足の太ももに彫った薔薇の刺青まで見せてもらった。
つぎに、ピロポ、さらに、センチュリーへとはしごした。3軒で飲んだのは、すべて「ロマネコンティ」だった。3軒で7本から10本は空けただろうか。当時、1本50万~70万円くらいはしていたワインだから、志津の金遣いのすごさが際立っていた。
ほかにも、志津は、それぞれの店を出る際、10万円ほどの現金をマネジャーとおぼしき人物に渡していた。志津本人が言っていたのは、クラブが「情報の宝庫」であるということだ。まだ、バブルの気配が残っていたから、さまざまな情報を接客する女性が聞き出し、それを志津に伝えるシステムが出来上がっていた。その代わり、志津は10人以上の女性の保証人となり、掛け売りのツケを尻ぬぐいしていたという。
こうした「現実」を実際に見聞きすることで、私は日本社会の「闇」の一端を初めて知った。その後、2006年、興産信金会長になっていた志津は、暴力団の関係会社に4億円を不正に融資し信金に損害を与えたとして、警視庁組織犯罪対策4課によって、背任容疑で逮捕された。私の人生において、親しかった人が逮捕されたのは、彼を含めて3人いるのだが、彼らからはいずれも「現実」を教えてもらった。
「闇」に斬り込む
こうした体験を通じて、私は「闇」に斬り込む重要性を身に染みるようになる。制度や理論を紙の上で学んでも、それはあくまで机上の空論にすぎない。「現実」はもっと複雑であり、多岐にわたる諸関係にまで目配りしなければ、「現実」を理解することなどできないのだ。
こうして、「現実」を見極めるという視角を私は大切にするようになった。いま思えば、この視角がいまの私を形成していることになる。
その最初のきっかけをつくってくれたのが大塚ということになる。
どうか、安らかに眠ってほしい。



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