ハンス=ヘルマン・ホッペ著『民主主義:失敗した神』に関するメモ
人生において読んだ本のなかで、最初に目から鱗という驚愕に襲われたのは、F・A・ハイエク著『貨幣発行自由化論』を読んだときのことだった。1988年に東洋経済新報社から刊行されたものである。
これを契機に、私はハイエクに関心をもつようになる。そのハイエクに導かれて、拙著『ロシア革命100年の教訓』では、27カ所においてハイエクを紹介した。たとえば、以下のように。
【1】
「一九四四年にフリードリヒ・ハイエクは『隷従への道』を刊行する。このなかで、彼は貧困からの自由のための国家=政府による計画化がかえって専制、抑圧、隷従への道につながるとする自説を展開した。といっても全面的な国家=政府による市場への介入を全面的に否定しているわけではなく、「健康や仕事の能力の保持に必要な最低限の食料、住処、衣服がだれしもに約束されうることに疑いをさしはさむ余地はない」として、最低限の国家=政府の関与は認めている。」
【2】
「計画化の陥穽
エヴォリューションがもっとも大きく歪められたのは、計画化を全面に打ち出して経済運営しようとした社会主義が登場したころである。国家が工場などの生産手段を所有し、国家主導で生産量やその価格を計画化して、経済そのものをその計画に沿って運営することで、国全体の発展をはかろうとしたものであった。だが、こうした「上」からのデザインという思想は根本的に間違っているのではないか、という疑念がわいてくる。「上」に任せるだけでは、さまざまな問題に対するよりまともな解決ができないからである。あるいは、原因と結果という因果関係だけでは説明できないこともあるからだ。
この点を「知識」(情報)という観点からのべたのがハイエクである。彼は一九四五年の論文「社会における知識の利用」のなかで、興味深い指摘をしている。
政府という「中央当局」が利用する知識は「統計」という形をとることが多い。ハイエクは、この統計が、ものごとの間の些細な相違点を取り除くことで、あるいは、ある決定のためにきわめて重要かもしれない場所、品質、その他の特性に関する相違項目をひとまとめにすることで得られることに注意を向けた。国は些細な違いに目を瞑り、だいたいこれくらいだろうという数字を紡ぎ出してよせ集め、それを根拠に上から政策決定をするのである。ただ、これでは時間や場所によって異なる特定の状況変化には対応できない。むしろ、それぞれの場所の近くにいる人々に多くを任せたほうが迅速で臨機応変は対応が可能となる。
だからこそハイエクは、「われわれは非中央集権化を必要としている。なぜならわれわれは、こうした状況においてはじめて時間と場所の特定状況についての知識が迅速に利用されると請け合うことができるからだ」と記述している(Hayek, 1945, p. 524)。彼のいうように、政府といった中央が情報を処理して「上」からなにかを決めること自体に本来的な限界があると指摘しなければならない。」
【3】
「ハイエクのいう「自生的秩序」
ハイエクは構築主義者の合理主義(constructivist rationalism)の誤謬を批判している。その誤謬はデカルトの二元論に密接に関連しているとして、その一方に、自然の宇宙の外に独立して存在する精神の実体という概念をおき、はじめからこうした精神を授けられた人間が生活する社会や文化の制度をデザインすることを可能にしてきたとみなしていたと、ハイエクは指摘している(Hayek, 1973, p. 17)。なお、構築主義(constructivism)とは、なにが「現実」として見えるのかはその生物学的有機体に備わった固有の器官の働きによって決定されるという立場を意味している(千田, 2001, p. 14)。Constructionismにおいて焦点とされるのは、人々が経験を「語りなおす」のかという、意味の共同的な達成過程である。
ハイエクは構築主義者の合理主義と(内的展開する)合理主義を区別している。それは抽象性に対する考え方の違いによる。前者の特性は、抽象的概念が精神によって十分に精通できない具体物の複雑性を処理するための手段であると認めないことにある。他方、後者は、十分に理解できない現実性を処理することを可能にする精神にとっての不可欠の手段として抽象性を認めている。わかりやすく言えば、抽象性を軽視して実体を重視することで社会や文化の制度をデザインしようとするところに構築主義者の合理主義の特徴がある。具体的には、全体主義、社会主義、共産主義、さらにケインズ的な近代経済学もこうした構築主義者の合理主義だとして批判されている。
さらに、ハイエクは「秩序」について考察し、構築主義的な秩序に関連する「つくられる秩序」(made orders)と「自生的秩序」(spontaneous orders)を区別して、後者の重要性を強調している。これはギリシャ哲学の影響を受けている。ハイエクによれば、ギリシャ人は秩序についてかけ離れた二つの言葉をもっていたという(Hayek, 1973, p. 37)。具体的には戦闘における秩序(軍の編成単位)のような「つくられる秩序」を表わす「タクシス」(taxis)と、国家ないし共同体における「正しい秩序」を表わす「コスモス」(kosmos)だ。つくられる秩序ないしタクシスは外因的でシンプルで具体的なものであり、つくり手の目的に仕えるという特徴がある。これに対して、自生的秩序ないしコスモスはこうした特徴をもたず、目的をもたない。つまり、自生的秩序を重視するハイエクは目的論的な立場をとらない。」
【4】
「マンデヴィル、ヒューム、スミスの思想
ハイエクは自生的秩序の理論的基礎はバーナード・マンデヴィルによってもたらされたと考えている。ついで、道徳的ルールや社会制度の合理主義的説明に一撃を加えた思想家として、ハイエクはデイヴィッド・ヒュームやアダム・スミスを評価している。ここでは、ハイエクの評価が必ずしも的を射ていない事実をのべているクリスティナ・ペトソウラスの主張(Petsoulas, 2001)を紹介しながら、ハイエクの見解を批判的に解説したい。
ハイエクは、マンデヴィルがその著書『蜂の寓話』によって「秩序だった社会構造、たとえば、法や道徳、言語、市場、貨幣といったものの自生的成長や技術知識の成長の古典的なパラダイムのすべてを発展させた」と褒めている(Hayek, 1978, p. 253)。ハイエクは、ヒュームの考えが人間の理解の狭い限界についての懐疑的見方に結びついており、ヒュームの出発点が道徳への反合理主義者的理論にあると主張している(同, pp. 110-111)。さらに、スミスについては、「予想可能な目的のための計画的なデザインの産物としてすべての制度を解釈してきた、初期の無邪気な構築主義者の合理主義に、意識的理性の効果的な利用の条件や限界を吟味する、決定的に重要な内的展開する合理主義を取って代えた」点を評価している(同, pp. 71-72)。
しかしペトソウラスによれば、こうしたハイエクの主張は彼の曲解に基づいており、必ずしも肯定できない。彼女は、「ハイエクの自生的秩序理論は人間のデザインのないなかで社会秩序がどのようにもたらされるかの「科学的な」説明を提供している」としたうえで、ハイエクがつぎの二つのタイプの説明を結合していると記述している(Petsoulas, 2001, p. 186)。
①「不可視の手」という説明:「不可視の手」に応じて、市場秩序はデザインないし集団的合意によってもたらされるのではなく、多くの個人が別々に彼らの目標を追求する行為の意図せぬ結果としてもたらされる。
②社会秩序の自生的形成メカニズムを提供するルールの文化進化理論:文化的進化は人間理性とは独立して起きる過程であり、ルールはルールの機能を個々人が理解しているために選択されるのではない。むしろ、最初に他の理由で採用されたか、あるいはまったくの偶然に採用された実践が保持されたのは、それらを採用した集団がそのルールを他者に広げることを可能にしたからにすぎない。
ハイエクはこの二つのタイプの説明を明確に区別せずに混同しながら自説を展開していることになる。ただ、マンデヴィルもヒュームもスミスも②の文化進化論の立場をとっていないと、ペトソウラスは指摘する。彼らは、試行錯誤(トライ・アンド・エラー)の理論を支持し、意識的実験が文化において支配的であるとの見方をとっている。とくに、ヒュームとスミスはルールの選択を個人の志向性とルールのもたらす便益理解に帰しているのであって、ルールが人間の理解を超えているとするハイエクの立場とはまったく異なっている。ハイエクは正義のルールが思いがけない「突然変異」として出現するかのようにみなしていることになる。だが、そこまで主張するのは明らかに行き過ぎだろう。」
こうした過去の経緯から、オーストリア学派に属すハンス=ヘルマン・ホッペの著した『民主主義:失敗した神』は、二度目の驚愕経験となった。そこで、いつものように、この本の気になる部分をメモ書きしておこう。
【1】
政治経済学と政治哲学(倫理学)の両分野における根本的な理論的洞察に基づき、またそれらに促されて、以下の研究において、私は近代史に関する三つの中心的な――実のところ、ほとんど神話的とも言える――信念と解釈の見直しを提案する。
私有財産と所有権、対する「公有」財産と行政、そして企業と政府(あるいは国家)の本質に関する初歩的な理論的洞察に基づき、私はまず、伝統的な世襲君主制に関する通説の見直しを提案し、その代わりに、君主制と君主制の経験について、異例とも言える好意的な解釈を提示する。要するに、君主制政府は理論上、私有政府として再構築され、それによって、政府の統治者による未来志向や資本価値への配慮、経済計算が促進されると説明される。第二に、同様に非正統的ではあるが、同じ理論的洞察に基づき、民主主義と民主主義的経験は、異例なほど否定的な光の下に置かれる。民主主義政府は「公有制政府」として再構築され、これは政府の統治者において現在志向を招き、資本価値を軽視・無視することにつながると説明される。したがって、君主制から民主主義への移行は、文明の衰退として解釈される。
さらに根本的かつ非正統的なのが、提案される第三の修正である。君主制について比較的肯定的な描写がなされているにもかかわらず、私は君主制支持者ではなく、以下は君主制の擁護ではない。その代わりに、君主制に対してとられる立場はこうだ。もし国家――すなわち、最終的な意思決定(管轄権)と課税に関する強制的な領土的独占を行使する機関――が必要であるならば、民主主義よりも君主制を選ぶことが経済的・倫理的に有利である。しかし、これでは国家が必要かどうか、すなわち君主制と民主主義の両方に代わる選択肢が存在するかどうかという疑問は残される。歴史もまた、この問いに対する答えを提供することはできない。定義上、反事実や代替案に関する「経験」などあり得ないからである。そして、少なくとも先進的な西洋世界に関して言えば、近代史に見出されるのは、国家と国家主義の歴史に他ならない。ここでもまた、答えを提供できるのは理論のみである。なぜなら、先程示したように、理論的命題は必然的な事実や関係に関わるものであり、それゆえ、それらが特定の歴史的報告や解釈を虚偽あるいは不可能として排除するために用いられるのと同様に、たとえそのような事柄がこれまで目撃されたことも試されたこともないとしても、建設的に可能であるとして他の特定の事柄を肯定するために用いられることもできるからである。
【2】
理論家として私は断固として保守的である。私は、少なくとも16世紀のスペインのスコラ学派にまで遡り、いわゆるオーストリア学派において最も明確に現代的な表現を見出した知的伝統に身を置いている。すなわち、カール・メンガー、オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、そしてマレー・N・ロスバードらが代表する純粋社会理論の伝統である。
ハプスブルク帝国の崩壊がもたらした多くの結果の一つとして、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに率いられた同学派の第3世代は、オーストリアおよびヨーロッパ大陸から根こそぎにされ、1940年のミーゼスのニューヨーク移住に伴い、アメリカ合衆国へと移り住むことになった。そして、オーストリアの社会理論が最も強固に根を下ろしたのはアメリカであり、それは特に、ミーゼスの傑出したアメリカ人弟子であるマレー・N・ロスバードの業績によるものである。以下の研究は、現代のオーストリア社会理論の視点から書かれている。全体を通して、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、そしてさらにマレー・N・ロスバードの影響が顕著に見られる。歴史の再構築と民主主義に対する建設的な代替案の提示を目的として本稿で用いられる政治経済学および哲学の基礎定理は、ミーゼスとロスバードの主要な理論著作において最も詳細に論じられている。 また、以下で論じられる主題の多くは、彼らの数多くの応用著作においても扱われている。さらに、以下の研究は、ミーゼス、とりわけロスバードと共通して、根本的かつ強固な反国家主義、私有財産擁護、そして自由企業を支持する立場を共有している。
【3】
第一次世界大戦当時、この勝利を収めた拡張主義的な民主共和主義のイデオロギーは、当時の米国大統領ウッドロウ・ウィルソンその人に具現化されていた。ウィルソン政権下において、ヨーロッパでの戦争は、「民主主義のために世界を安全にし、王朝支配から解放する」というイデオロギー的な使命となった。 そのため、敗北したロマノフ家、ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家は退位または辞任を余儀なくされ、ロシア、ドイツ、オーストリアは、男女普通選挙と議会制政府を備えた民主共和国となった。
同様に、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ハンガリー、チェコスロバキアといった、新たに誕生したすべての後継国も、ユーゴスラビアを唯一の例外として、民主的な共和制の憲法を採択した。トルコとギリシャでは、君主制が打倒された。また、イギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、オランダ、スカンジナビア諸国のように君主制が存続した国々においても、君主はもはやいかなる統治権力も行使しなくなった。至る所で成人普通選挙が導入され、すべての統治権力は議会と「公的」官吏に委ねられた。
【4】
経済理論の観点から見れば、第一次世界大戦の終結は、民間・政府所有が完全に公的政府所有へと置き換わった時点として特定でき、そこから社会的時間選好の高まり、政府の肥大化、そしてそれに伴う文明の退廃という傾向が加速し始めたと見なすべきである。実際、前述の通り、これこそが20世紀の西洋史における根本的な大テーマであった。1918年以来、時間選好の高まりや上昇を示す事実上のあらゆる指標は、体系的な上昇傾向を示してきた。政府に関して言えば、民主的共和主義は共産主義(これに伴い、平時においても公的な奴隷制や政府主導の大量殺戮をもたらした)、ファシズム、国家社会主義、そして最後にして最も長く続くものとして社会民主主義(「リベラリズム」)を生み出した。46 徴兵制はほぼ普遍化され、対外戦争や内戦の頻度と残虐性は増大し、政治的中央集権化のプロセスはかつてないほど進展した。国内においては、民主的共和主義は恒久的な増税、債務の増加、および公的雇用の拡大をもたらした。それは金本位制の崩壊、前例のない紙幣インフレ、そして保護主義と移民規制の強化へとつながった。最も基本的な私法の規定でさえ、絶え間ない立法と規制の洪水によって歪められてきた。同時に、市民社会に関しては、結婚と家族の制度がますます弱体化し、子供の数は減少し、離婚率、非嫡出子率、片親家庭率、独身率、中絶率が上昇している。貯蓄率は所得の増加に伴って上昇するどころか、停滞あるいは低下さえしている。19世紀と比較すると、政治・知識人エリートの知的能力や公教育の質は低下している。そして、犯罪率、構造的失業率、福祉依存、寄生行為、怠慢、無謀、非礼、精神病質、快楽主義の割合が増加している。
【5】
結局のところ、人類の歴史の行方は、それが真実であれ虚偽であれ、思想によって決定づけられる。王が、世論によってその統治が正当であると認められなければ権力を行使できなかったのと同様に、民主主義の指導者たちもまた、政治的権力を維持するために世論に依存している。したがって、文明の退廃というプロセスがその全容を露わにするのを防ぐためには、世論を変えなければならないのである。かつて君主制が正当なものとして受け入れられていたが、今日では現在の社会危機に対する解決策として考えられないものと見なされているのと同様に、民主的統治という思想が、いつの日か道徳的に正当性を欠き、政治的に考えられないものと見なされるようになる可能性も決して否定できない。そのような正当性の喪失こそが、究極的な社会的大惨事を回避するための必要不可欠な前提条件なのである。人類の文明と社会的平和の源泉は、政府(君主制であれ民主制であれ)ではなく、私有財産、そして私有財産権の承認と擁護、契約主義、そして個人の責任にある。
【6】
政府による私有の決定的な特徴は、収用された資源と、将来の収用に関する独占的権利が個人所有であるという点にある。収用された資源は統治者の私有財産に組み入れられ、あたかもその一部であるかのように扱われる。また、将来の収用に関する独占的権利は、この財産に対する権利として付随し、その現在価値を即座に増加させる(独占利益の「資本化」)。最も重要な点は、政府資産の私的所有者として、統治者は自身の所有物を個人的な相続人に譲渡する権利を有することである。また、特権的な資産の一部または全部を売却、賃貸、または譲渡することができ、その売却益や賃貸料を私的に懐に入れることができる。さらに、自身の資産のすべての管理者や従業員を個人的に雇用したり解雇したりすることもできる。
対照的に、公的所有制の政府においては、政府機構に対する支配権は受託者、すなわち管理者の手に委ねられている。管理者はその機構を私的な利益のために利用することはできるが、それを所有しているわけではない。政府の資源を売却してその収益を私腹を肥やすことも、政府の所有物を自身の相続人に譲渡することもできない。管理者は政府資源の「現在的な使用権」を所有しているが、その「資本価値」を所有しているわけではない。さらに、政府の私的所有者となる資格は所有者の個人的な裁量によって制限されるのに対し、管理人・統治者となる資格は誰でも得ることができる。原則として、誰でも政府の管理人になることができるのである。
経済理論の観点からすれば、第一次世界大戦の終結は、政府の私的所有が公的所有へと完全に置き換わった時点として特定でき、そこから搾取の増大(政府の肥大化)と社会的時間選好の高まり(現在志向)という体系的な傾向が加速し始めることが予想される。実際、これこそが第一次世界大戦後の西洋史における、根本的な大テーマであった。19世紀後半の3分の1の期間に、旧体制の弱体化が進む中で若干の前兆が見られたものの、1918年以降、政府による搾取および時間選好の高まりを示すほぼすべての指標は、体系的な上昇傾向を示してきた。
【7】
16世紀から17世紀にかけての政治的中央集権化の過程で、関税、物品税、地代といった新たな政府歳入源が開拓された。しかし、19世紀半ばに至るまで、西ヨーロッパ諸国の中で所得税を導入していたのは、例えばイギリス(1843年以降)だけだった。フランスは1873年に、イタリアは1877年に、ノルウェーは1892年に、オランダは1894年に、オーストリアは1898年に、スウェーデンは1903年に、米国は1913年に、スイスは1916年に、 デンマークとフィンランドは1917年、アイルランドとベルギーは1922年、ドイツは1924年であった。しかし、第一次世界大戦勃発の時点でも、国内総生産(GDP)に占める政府総支出の割合は、通常10パーセントを超えておらず、ドイツの場合のように15パーセントを超えることは極めて稀であった。これとは著しい対照をなすように、民主共和制時代の到来とともに、政府総支出のGDPに占める割合は、1920年代から1930年代にかけて概ね20~30パーセントに増加し、1970年代半ばまでには概して50パーセントに達していた。
君主制時代において、政府の雇用総数が増加したことも疑いようがない。しかし、19世紀末までは、政府の雇用が労働力総数の3%を超えることはめったになかった。王室の大臣や国会議員は通常、公費による給与を受け取っておらず、私財で生計を立てることを期待されていた。対照的に、民主化の進展に伴い、彼らは給与制の公務員となり、それ以来、政府の雇用は継続的に増加してきた。例えばオーストリアでは、労働力に占める政府雇用の割合は、1900年の3%未満から1920年代には8%を超え、1970年代半ばには15%近くまで上昇した。フランスでは、1900年の3%から1920年には4%、1970年代半ばには約15%へと上昇した。ドイツでは、1900年の5%から1920年代半ばには10%近く、1970年代半ばには15%近くへと増加した。英国では、1900年の3%未満から1920年代には6%を超え、1970年代半ばには再び15%近くまで増加した。イタリアやその他のほぼすべての地域でも同様の傾向が見られ、1970年代半ばには、小さなスイスにおいてのみ、政府雇用が依然として労働力の10%をわずかに下回っていた。
【8】
実際、金利低下傾向は、人類の長期的な発展の潮流を特徴づけるものである。紀元前6世紀のギリシャ金融史の黎明期において、「通常の安全な貸付」の最低金利は約16パーセントであったが、ヘレニズム時代には6パーセントまで低下した。ローマでは、共和政初期の8パーセント以上から、帝政1世紀には4パーセントへと最低金利が低下した。13世紀のヨーロッパでは、「安全な」貸付の最低金利は8%であった。14世紀には約5%まで低下し、15世紀には4%となった。17世紀には3%まで下がり、19世紀末には最低金利はさらに低下して2.5%未満となった。
この傾向は決して順調なものではなかった。時には数世紀にも及ぶ金利上昇の時期によって、頻繁に中断された。しかし、そうした時期は、14世紀の百年戦争、16世紀後半から17世紀初頭にかけての宗教戦争、18世紀後半から19世紀初頭にかけてのアメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争、そして20世紀の二つの世界大戦といった、大規模な戦争や革命と関連していた。さらに、高い、あるいは上昇傾向にある最低金利は、概して生活水準が低い、あるいは低下している時期を示すのに対し、低金利および金利低下という、それとは正反対の圧倒的な傾向は、人類の全体的な進歩——すなわち、野蛮から文明への進展——を反映している。具体的には、金利低下の傾向は、西洋世界の台頭、その人々の繁栄、先見性、知性、道徳的強さの増大、そして19世紀のヨーロッパ文明が到達した比類なき高みを反映している。
こうした歴史的背景と経済理論に照らせば、20世紀の金利は19世紀の金利よりもさらに低い水準にあるはずである。実際、そうではない理由として考えられる説明は2つしかない。第一の可能性は、20世紀の実質所得が19世紀の水準を上回らなかった、あるいはそれ以下に落ち込んだということである。しかし、この説明は実証的な根拠から排除できる。なぜなら、20世紀の所得が実際には高いということは、ほぼ議論の余地がないように思われるからである。そうなると、残るは第二の説明のみとなる。もし実質所得が高いにもかかわらず金利が低くないのであれば、「他の条件が同じである」という前提はもはや成り立たない。むしろ、社会の時間選好曲線が上方へシフトしたに違いない。つまり、人々の性質が変わったに違いないのである。平均的に見て、人々は道徳的・知的な強さを失い、より現在志向的になったに違いない。
実際、その通りであるようだ。1815年以降、ヨーロッパおよび西洋世界全体において、最低金利は着実に低下し、20世紀初頭には平均で3パーセントを大幅に下回る歴史的な低水準に達した。民主共和制時代の到来とともに、この以前の傾向は止まり、方向転換したようであり、20世紀のヨーロッパと米国は衰退する文明であることが明らかになった。例えば、英国、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、スウェーデン、スイス、および米国の過去10年間の最低平均金利を検証すると、第一次世界大戦後の全期間を通じて、欧州の金利が19世紀後半の水準を下回ることは一度もなかったことが分かる。19世紀後半の水準を下回ったのは、1950年代の米国においてのみであった。しかし、これは一時的な現象に過ぎず、その際でさえ、米国の金利は19世紀後半の英国の水準を下回ることはなかった。
それどころか、20世紀の金利は全般的に19世紀の金利よりも著しく高く、むしろ上昇傾向を示してきたといえる。この結論は、現代の金利、とりわけ1970年代以降の金利には体系的なインフレプレミアムが含まれているという点を考慮に入れたとしても、実質的に変わるものではない。実質金利を推定するために最近の名目金利をインフレ率で調整したとしても、現代の金利は100年前よりも依然として著しく高いように見える。平均的に見て、今日の欧米における長期金利の最低水準は4パーセントを大幅に上回り、おそらく5パーセントにも達しているようである。これは17世紀ヨーロッパの金利を上回り、15世紀の金利と同等かそれ以上である。同様に、可処分所得の約5%という現在の米国の貯蓄率は、はるかに貧しかった17世紀のイングランドにおける300年以上前の水準を上回るものではない。
この動向と並行して、また、社会的時間選好の高まりという根本的な現象のより具体的な側面を反映して、「機能不全家族」といった家族崩壊の指標は、着実に増加している。
19世紀末までは、政府支出の大部分(通常50%以上)が軍事費に充てられていた。当時の政府支出が国民総生産の約5%であったと仮定すると、軍事費は国民総生産の2.5%に相当した。残りは政府の行政運営に充てられていた。
【9】
民主主義に内在する平等主義を反映して、19世紀後半の民主化の始まり以来、個人の責任は集団化されていった。20世紀を通じて、軍事支出は通常、国民総生産の5~10パーセントにまで増加した。しかし、現在、公共支出が国民総生産の50パーセントを占める中、軍事支出は政府総支出のわずか10~20パーセントに過ぎない。
公的支出の大部分――通常、総支出の50%以上(あるいは国民総生産の25%)――は、今や公的福祉支出によって占められている。すなわち、疾病、労働災害、老齢、失業、そしてその他ますます拡大する障害に対する、政府による強制的な「保険」である。
その結果、個人が自らの健康、安全、老後の生活を保障しなければならないという責任をますます軽減されるにつれ、私的な備えの範囲と時間的視野は体系的に縮小されてきた。特に、「公的」な支援に頼ることができるようになったため、結婚、家族、そして子供に対する価値は低下した。こうして、民主共和制の時代が始まって以来、子供の数は減少し、内生的人口の規模は停滞、あるいは減少さえしている。19世紀末までの数世紀にわたり、出生率はほぼ一定であった。人口1000人あたり30から40人程度(カトリックが主流の国では通常やや高く、プロテスタントの国ではやや低かった)。これとは対照的に、20世紀に入ると、ヨーロッパ全土および米国において出生率は劇的に低下し、1000人あたり約15~20人まで落ち込んだ。39 同時に、離婚率、婚外子出生率、ひとり親家庭の割合、独身者の割合、中絶率は着実に増加している一方で、個人貯蓄率は、所得の増加に比例して、あるいはそれ以上に上昇するどころか、横ばい、あるいは減少さえし始めている。
さらに、立法による法の価値の低下や、特に社会保障法によって進められた責任の集団化の結果として、殺人、暴行、強盗、窃盗といった重大な犯罪の発生率も、一貫して上昇傾向を示している。
【10】
高い時間選好は、無謀さ、不誠実さ、礼儀の欠如、怠惰、愚かさ、あるいは快楽主義といった、完全に合法的な活動においても表れることがある。とはいえ、高い時間選好と犯罪との間には体系的な関係が存在する。なぜなら、市場収入を得るためには、ある程度の計画性、忍耐、そして犠牲が求められるからだ。報酬を得るには、まずしばらく働かなければならない。対照的に、殺人、暴行、強姦、強盗、窃盗、住居侵入といったほとんどの重大な犯罪行為には、そのような規律は一切必要とされない。加害者にとっての報酬は即座かつ具体的なものであるのに対し、犠牲――つまり処罰の可能性――は未来にあり、不確実である。したがって、社会全体の時間選好度が高まれば、特にこうした攻撃的行動の頻度は上昇すると予想される――実際、そうであったように。
【11】
結論:
君主制、民主主義、そして自然秩序の理念
したがって、初歩的な経済理論の観点から、また歴史的証拠に照らして、近代史に対する修正主義的な見解が導き出される。人類が絶えず前進し、より高い段階の進歩へと向かっていくとするホイッグ史観は誤りである。
搾取の多さよりも少なさを好み、近視眼的な態度や無責任さよりも先見の明と個人の責任を重んじる人々の視点からすれば、君主制から民主制への歴史的移行は進歩ではなく、文明の衰退を意味する。この結論は、より多くの指標や他の指標を含めたとしても変わらない。むしろその逆である。疑いなく、上述されなかった搾取と現在志向の最も重要な指標は戦争である。しかし、この指標を含めた場合、民主共和制政府の相対的な実績は、良くなるどころか、さらに悪化するようである。搾取の増大と社会的腐敗に加え、君主制から民主制への移行は、限定戦争から総力戦への変化をもたらし、民主主義の時代である20世紀は、歴史上最も殺戮の多い時代の一つとして位置づけられなければならない。
20世紀の終わりに、米国および西洋世界全体における民主的共和主義は、過去から受け継いだ蓄えを明らかに使い果たしてしまった。1990年代の好景気に至るまでの数十年間、実質所得は停滞、あるいは減少さえしていた。公的債務と社会保障制度のコストは、差し迫った経済崩壊の兆しをもたらした。同時に、社会の崩壊と社会的対立は危険なレベルにまで高まっている。搾取の拡大と現在志向の傾向がこのまま続けば、西欧の民主的福祉国家は、1980年代後半に東欧の社会主義人民共和国がそうであったように崩壊するだろう。したがって、第二の問いが残される。文明の衰退というプロセスが経済的・社会的破局へと突き進むのを防ぐために、今、私たちに何ができるのか?
何よりもまず、民主主義や多数決の理念そのものの正当性を否定しなければならない。結局のところ、歴史の行方は、それが真実であれ虚偽であれ、思想によって決定されるのである。王が、世論の大多数がその支配を正当なものとして受け入れていなければ統治を行使できなかったのと同様に、民主主義の統治者もまた、世論における思想的な支持がなければ存続し得ないだろう。同様に、君主制から民主制への移行は、根本的には単なる世論の変化に過ぎないと説明されなければならない。実際、第一次世界大戦の終結まで、ヨーロッパの圧倒的多数の民衆は君主制を正当なものとして受け入れていた。今日では、そう考える人はほとんどいない。それどころか、君主制という考え方は滑稽なものとして見なされている。したがって、アンシャン・レジームへの回帰は不可能であると見なされなければならない。君主制の正当性は、取り返しのつかないほど失われたように見える。また、そのような回帰は真の解決策にもならないだろう。なぜなら、君主制は、その相対的な長所が何であれ、搾取を行い、また現在志向を助長するものでもあるからだ。むしろ、民主共和制という思想こそ、少なくとも現在進行中の「脱文明化」のプロセスの源泉であると見なすことで、君主制と同等か、それ以上に滑稽なものとして提示されなければならない。
しかし同時に、そしてさらに重要なこととして、君主制や民主主義に代わる建設的な選択肢――すなわち「自然秩序」という概念――を明確に描き出し、理解しなければならない。一方で、これは、人間文明の究極の源泉は、君主制や民主主義による搾取ではなく、私有財産、生産、そして自発的な交換にあるという認識を伴うものである。他方、これには、ある根本的な社会学的洞察(ちなみに、これは君主制に対する歴史的な反対がどこで誤ったかを正確に特定するのにも役立つ)の認識が含まれる。すなわち、私有財産に基づく交換経済の維持と保全には、社会学的予設として、自発的に認められた「自然のエリート」——nobilitas naturalis——の存在が必要であるという認識である。
【12】
しかし、前述の通り、法と法執行の民主化――つまり、王の代わりに民衆が権力を握ること――は、予想通り事態をさらに悪化させるだけだった。正義と平和の代償は天文学的なまでに高騰し、その一方で法の質は着実に低下し、普遍的かつ不変の正義の原則の体系としての法の概念は、世論からほぼ消え去り、立法(政府が作る法)としての法の概念に取って代わられてしまった。同時に、民主主義は、君主制がほんのわずかな手始めに過ぎなかったところで成功を収めた。すなわち、自然のエリート層の究極的な破壊においてである。名門家の繁栄は散り散りとなり、文化と経済的自立、知的な先見性、そして道徳的・精神的指導力という彼らの伝統は忘れ去られた。今日でも富裕層は存在するが、彼らの富は今や、直接的あるいは間接的に国家に負っている場合がほとんどである。したがって、彼らは、はるかに貧しい人々よりも、国家の継続的な恩恵に依存していることが多い。彼らはもはや、古くから続く名門家の当主ではなく、典型的には成金である。彼らの振る舞いは、特別な美徳や威厳、あるいは品格によって特徴づけられるものではなく、現代志向、日和見主義、快楽主義といった、富裕層が今や他の人々と共有するプロレタリア的大衆文化の反映に過ぎない。その結果、彼らの意見は、他の誰の意見よりも公衆の世論において重みを持つわけではない。
したがって、民主主義の統治が最終的にその正当性を失ったとき、直面する問題は、王が正当性を失ったときよりもはるかに困難なものとなるだろう。当時、王による法と法執行の独占を廃止し、それを競合する管轄権による自然秩序に置き換えるだけで十分だった。なぜなら、この任務を引き受けることのできる自然エリートの残党が依然として存在していたからである。しかし、もはやそれだけでは不十分である。民主主義政府による法と法執行の独占が解体された場合、正義を求めるために頼れる他の権威は存在しないように見え、混乱は避けられないように思われる。したがって、民主主義の放棄を提唱することに加え、あらゆる分権化、あるいは分離独立を求める社会的勢力に対して、同時にイデオロギー的な支持を与えることが、今や極めて重要な戦略的課題となっている。言い換えれば、数世紀にわたり西洋世界を特徴づけてきた政治的中央集権化の傾向――最初は君主制の下で、その後は民主主義の庇護の下で――を、体系的に逆転させなければならないのである。
【13】
言い換えれば、私たちに必要なのは……いわば「文明の禁欲者」、世俗化された聖人たちのリーダーシップである。彼らは現代において、いかなる時代、いかなる社会においても、長く空席のままにしてはならない地位を占めている。これこそが、「大衆の反乱」には別の反乱、すなわち「エリートの反乱」をもって対抗しなければならないと主張する人々が念頭に置いていることである……。我々に必要なのは、真の「nobilitas naturalis(自然の貴族性)」である。いかなる時代もこれなしには成り立たないが、とりわけ、これほど多くのものが揺らぎ、崩れ去りつつある現代においてはなおさらである。
我々に必要なのは、幸いなことにその権威がすべての人々に容易に受け入れられるような、自然の貴族性である。それは、卓越した業績と比類なき道徳的模範のみにその称号を由来とし、そのような人生がもたらす道徳的尊厳を帯びたエリートである。
社会のあらゆる階層から、ごく少数の者だけが、この自然貴族という薄い層へと昇りつめることができる。そこへ至る道とは、すべての人々のために献身的に尽力する模範的でゆっくりと成熟していく人生、非の打ち所のない高潔さ、我々の共通する貪欲への絶え間ない自制、実証された健全な判断力、汚れのない私生活、真実と法を守るための不屈の勇気、そして総じて最高の手本となることである。
こうして、民衆の信頼に支えられて上昇した少数の人々は、次第に人々の階級、利害、情熱、邪悪さ、愚かさを超越した地位に達し、ついに国家の良心となるのである。この道徳的貴族の集団に属することこそが、最高かつ最も望ましい目標であるべきであり、それに比べれば、人生の他のあらゆる勝利は色あせ、味気ないものとなる……。いかなる自由社会も、ましてや大衆社会へと堕落しかねない我々の社会においては、このような「監視者」の階級なしには存続し得ない。我々の自由な世界の存続は、結局のところ、現代が十分な数の、このような公共精神に満ちた貴族を生み出せるかどうかにかかっている。(『人道的な経済』pp. 130-31)
【14】
これ以降、リベラリズム批判



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