「覚醒マインド・ウイルス」について考える

もう『ネオ・トランプ革命の深層』は書き上げたので、これからはこの本のプロモーションに着手することになる。

第一に考えているのは、「独立言論フォーラム」での連載「知られざる地政学」で何度か紹介するという作戦である。

第二は、一週間に一度ペースで投稿している「現代ビジネス」において、この本を露骨に宣伝するという方法である。

第三は、IWJに出演し、宣伝することか。

第四は、講演会を開催して宣伝するというものだ。

 

新刊に登場する「覚醒マインド・ウイルス」

ここでは、第一の作業に関連して、いま準備している「覚醒マインド・ウイルス」について、書き留めておきたい。新しい著書において、私の関心をもっとも惹いた問題だからである。

新刊では、第八章の注と第九章に「覚醒マインド・ウイルス」が登場する。前者においては、「彼らは有力なロシアにおける「覚醒マインド・ウイルス」(woke mind virus, 2021年にイーロン・マスクによって広められた用語で、社会正義を求める左翼的な政治運動が相手から偏見に満ちているとみなされたり、社会を破壊しているとみなされたりすることを指す)になっている」というかたちで現れる。

第九章では、つぎのような記述がある。

「 ここからは、私の尊敬するユーリヤ・ラティニナの「トランプの台頭がいかに世界をより良い場所にするかについて」という興味深い記事を参考に論じてみたい。まず、ここでも、リベラルデモクラシーを主張するような「左翼思想」が同じような手口で圧倒的な優位に立つことに成功した。しかもその手口は、「覚醒マインド・ウイルス」(woke mind virus)による感染にある。これは2021年にイーロン・マスクによって広められた用語で、社会正義を求める左翼的な政治運動が、相手から偏見に満ちているとみなされたり、社会を破壊しているとみなされたりすることを指す。ポストモダニズム、道徳的相対主義、社会構築主義といった「醒めた」概念が人々の心に病原菌のように作用するのである。

 ラティニナによれば、「覚醒マインド・ウイルス」は、非常識で非現実的な原則の集合である。その上に健全な社会は築けないが、この社会を、何でもできる被害者、悔い改め償わなければならない抑圧者、だれが被害者でだれが抑圧者になるかを決める活動家とノーメンクラトゥーラに分けることを可能にする。ウクライナ戦争の場合、ウクライナ側が無垢な被害者となり、絶対的な悪としてロシアが抑圧者となった。このとき、ノーメンクラトゥーラは、活動家(助成金と手当てで生きている特別な種類の無責任で幼稚な怠け者)と、自分たちは被害者だというテーゼに誘惑された大衆によって支えられている、とラティニナはいう。このとき、活躍したのが、侵略国ロシア、植民地や属国化されかねない被害国ウクライナという見立てであった。」

 

新刊では、この「覚醒マインド・ウイルス」という喩えを是認したうえで議論を展開している。ただし、この比喩には疑義がある。そこで、ここでこの問題について考察することで、私が「覚醒マインド・ウイルス」という見方自体を正しいとは思っていないことを示しておくことにした。

 

「「覚醒マインド・ウイルス」は存在しない」

2024年9月6日、ダン・ウィリアムズは「「覚醒マインド・ウイルス」(woke mind virus)は存在しない」という記事を公開した。この記事を読んで、彼のいうように、もう少し「覚醒マインド・ウイルス」について丁寧に論じておいたほうが親切であると気づいたのである(新刊執筆時点で気づいていたが、出版社の変更に伴って、好きなだけ書きたいことを書くというこれまでのやり方が通用しなくなったために長大な注で、この問題を論じることができなかったわけである)。

ウィリアムズは、「悪い考えも含め、考えは感染するマインド・ウイルスではない」と一刀両断にしている。「この比喩は、人間心理と社会行動を不正確に描写しており、理解ではなく悪者扱いする機能をもっている。このため、公の議論を毒し、分極化を強め、世界と他者に対する理解の能力を阻害する」という。

そのうえで、「マインド・ウイルス」という見方の問題として、①「マインド・ウイルス」という比喩は、真実は自明であると仮定しているため、誤った信念は非合理から生じるに違いない(これは、人々が異なる情報、信頼できる情報源、解釈の枠組みに基づいて信念を形成する方法を無視している)、②人々は、真理の探究を超えた実用的な目的に役立つからこそ、ある考えを受け入れ、広めることが多い(たとえば、宗教的、イデオロギー的、陰謀論的な物語は、しばしばプロパガンダ的な機能をもち、人々の社会的利益を促進するが、このような動機づけられた推論は、「マインド・ウイルス」による受動的な感染とは全く異なる)、③信念体系は単純な伝染によって広まるものではない――という三つの論点を指摘している。 

①は「真実は自明ではない」、②は「動機づけられた不合理」、③は「信念体系は伝染によって広がるものではない」という三つの論点として、ウィリアムズはそれぞれについて論じている。

 

(1)「真実は自明ではない」

これは当たり前のことだが、「確証バイアス」のためなのか、人間はついつい真実の自明性を前提としてしまう。『世論』で知られるウォルター・リップマン(拙著『帝国主義アメリカの野望』では、「米報道界の長老にして自由民主主義の理論家」と紹介しておいた)は、「真実」は自明であると考え、真実を見ない人、つまり自分と意見が異なる人は、悪人か、非合理的か、あるいは洗脳されているに違いないと考える「素朴実在論者」の存在によく気づいていた。「現実の環境はあまりにも大きく、あまりにも複雑で、あまりにも儚いため、人と環境は直接知り合うことができない」から、その代わりに、人々は主観的で偏った、必然的に省略された心象風景である「疑似環境」(pseudo-environment)を構築するという。人々は「同じ世界に住んでいるが、異なる世界で考え、感じている」ように考え、人間の行動は、その人の「擬似環境」によって刺激され、現実世界で行動する。

定義上、適切な事実が完全かつ正確に提供されることはない。必然的に、ある出来事に対するある主観的な解釈を描くために、それらはアレンジされる。ある環境について最も多くの事実に精通している人たちは、自分たちの「ステレオタイプ」に沿った「疑似環境」を構築し、それを知ってか知らずか、自分たちの個人的なニーズに合うように大衆に伝える。これは避けられない人間の本性である、とリップマンはみなす。プロパガンダは本質的に、出来事と大衆の間に検閲の障壁を必要とする。したがって、マス・コミュニケーション・メディアは、その情報伝達手段としての性質上、本質的に操作されやすい。

その知覚的視差の責任は、マスメディアの技術(印刷物、ラジオ、映画、あるいは推論的にはテレビ)やロジスティクスの問題にあるのではなく、知的関与がほとんどないまま生活に参加している社会の特定のメンバーにある。「とまどえる群れ」(bewildered herd)はマス・コミュニケーション・メディアによって目に見えない環境を理解するためにお金を払わなければならない。しかも、そのニュースなるものは、編集者の選択と判断の結果の提供を受けるにすぎない。

そのうえで、リップマンは、公共の利益のために適切に運用されるのであれば、「同意のでっち上げ」(manufacture of  consent)を民主主義社会にとって有用であり、必要であるとものとみなす。ゆえに、近代国家の公務が発生する複雑な「目に見えない環境」を、自分たちでは正確に理解することができない階級、すなわち、政治エリート向けに、専門的な「専門家階級」がデータを収集・分析し、その結論を社会の意思決定者に提示し、その意思決定者が、今度は「説得術」を使って、自分たちに影響を与える決定や状況について国民に知らせるという「民主主義」を、リップマンは提案しているのである。

このリップマンの主張の延長線上でウェイクイズム(wokeism)について考えてみよう。西洋社会は、一部のグループ(たとえば、異性愛者の白人男性)を利するように構成されており、他のグループ(たとえば、マイノリティ、女性、クィアなど)を犠牲にしている。歴史的な抑圧は、今も周縁化されたグループに影響を与え続けている。たとえば、さまざまな人口統計グループ間の衝撃的な格差(収入、教育、健康、政治的影響力など)というかたちで、ウェイクイズムの証拠が数多く存在しているようにみえる。専門家もまた、ウェイクイズムの考え方を明確に正当化し支持する、数えきれないほどの歴史的、社会学的、心理学的、哲学的調査を行っている。

だが、これらの事実は、ウェイクイズムが「真実」であることを意味するものではない。他の一般的なイデオロギーと同様に、ウェイクイズムには真実、洞察、省略、誇張、曖昧化、誤解を招く説明が混在しているにすぎない。それでも、合理性を真実と密接に結びつける者がいる。学習、推論、信頼の独特な歴史から構築された、「疑似環境」の構成要素から、敵対者は一方的な見方を押しつけるのである。

 

(2)「動機づけられた不合理」

重要なことは、「動機づけられた不合理」の存在である。たとえば、多くの宗教的信念体系は、①他者に対してより道徳的になるよう奨励し、②自身の道徳的誓約を表明するという戦略的行為者によって、時間をかけて徐々に作り上げられ、洗練されてきた社会的技術であることを示す研究結果がますます増えている、とウィリアムズは指摘する。これが、ほとんどの宗教的信念体系が、道徳的行動を監視し、動機づける超自然的行為者(神々)や力(因果応報)を想定している理由であるという。さらに、宗教的コミュニティが共有する宗教的信念への献身を道徳化し、それを神聖な正統性として扱い、それを支持、保護、普及する義務を創出し、それを脅かす冒涜者や異端者を処罰する理由でもある、と書いている。

そのうえで、ウィリアムズは、「このような認識論的な不合理性の根底には、重要な社会的合理性が存在しており、それが、宗教的な人々がしばしば無神論者よりも幸福で、健康で、より繁栄し、充実している理由を説明しているのかもしれない」、と指摘している。

イデオロギーの場合、イデオロギーはしばしばプロパガンダ的な機能を果たし、社会の特定の層が利益を得るような考えや物語が取り上げられる。 このような場合、プロパガンダの恩恵を受ける人々は、その真偽とは無関係な理由でイデオロギーに強く愛着を持つようになる。他方で、特定のイデオロギーを支持することは、社会的シグナリング機能を果たし、その信奉者が魅力的な資質をもっていることや、特定の個人やグループへの忠誠心を示していることを意味する。このようなシグナルを発することで利益を得られる場合、人々は純粋な合理性よりもイデオロギーへの献身を優先することが多い。別言すると、ほとんどのイデオロギーの支持には、利己的な動機がかかわっているのである。

たとえば、ウェイクイズムは、特に地位の高い専門職において、伝統的に周縁化されてきた集団のメンバーに、より高い地位と権力を与えることを目的としている。そう考えると、これらの専門職に就く集団のメンバーは、ウェイクイズムの広がりに明らかに利益を得ている。同様に、教育の二極化やその他の要因により、多くの西洋諸国では、大学卒の白人専門職が、人種的少数派と左派の政治連合の一員となる状況が生み出されている。つまり、仲間を利するイデオロギーを推進するという一般的な動機が、このグループが目覚めた思想に惹かれる理由を説明している可能性がある、とウィリアムズは指摘している。また、非常に進歩的な見解を支持することは、大学を卒業していない労働者階級の白人たちと一線を画する方法を提供するという事実も、このグループの目覚めた思想への傾倒を説明しているという。

つまり、あるイデオロギーを支持することが、自分が善良な人間であることを示すというのであれば、善良な人間として見られたいという人々の強い願望が、異常なまでの狂信的なまでにそのイデオロギーを受け入れるよう駆り立てる可能性がある。そこに、動機づけられた不合理を見出すことができるのだ。

 

(3)「信念体系は伝染によって広がるものではない」

ウィリアムズはつぎのように記している。

「人々がマインド・ウイルスとして扱う一般的な信念体系は、単に不幸な犠牲者たちの間で接触したり「さらされたり」することで広まるわけではない。むしろ、それは同じ信念を持つ人々の間で共有され、信念に基づく部族が複雑に連携し、特注の現実を作り出し、守り、広めていくのである。」

その意味で、「信念体系」(belief systems)が問題になる。信念に基づく部族のなかでは、共有された信念を神聖な正統性へと変え、それを疑う者に対して規範を強制し、グループのメンバーに支持する証拠や論拠を伝えるよう促すようになり、その結果、コミュニティは、信頼する人々からの反証や批判にさらされることがない。一種の「エコーチェンバー」状態が現出する。

さらに、賢い人々は、好ましい結論を擁護し正当化するために時間と創意工夫を注ぎ込むことで、信奉者たちのコミュニティ内で地位を獲得することができる。共有された現実に対する熱心な献身をする者には、グループの仲間たちから社会的報酬が与えられる。彼らは布教し、改宗させ、宣伝する。彼らは、反対者、異端者、背教者を罰したり「キャンセル」したりするエネルギッシュな暴徒を形成する。そして、「大義」への誠実な献身を示すために、多大な犠牲を払う。

このようにみてくると、「覚醒マインド・ウイルス」という比喩を安易に使用するのは好ましいことではないように思われる。

 

 

(Visited 18 times, 2 visits today)

コメントを残す

サブコンテンツ

塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

このページの先頭へ