「本屋に行こう」運動の始動

ぼくは、「本屋に行こう」運動をはじめたいと考えている。そんなことを思うようになった理由がいくつかある。第一は、本を読まなくなった日本人が多いことへの憂いを禁じ得ないからである。本は糧であり、本を読むことで疑似体験ができ、確実に人生を豊かにしてくれる。ぼくは、できるだけ多くの人々に豊かな人生を過ごしてほしいと思っているから、本を読むことをずっと勧めてきた。

ぼくのゼミでは、夏休みに、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、『白痴』と、江川卓の『謎ときカラマーゾフの兄弟』、『謎とき罪と罰』、『謎とき白痴』のいずれかをセットで読み、読後感想文を提出するという宿題を課していた。小説を読む楽しさを知ってもらうためである。特別に、『カラマーゾフの兄弟』を読む場合には、高野史緒著『カラマーゾフの妹』も読むように求めた。高知大学のゼミ生はよくこの課題を果たしてくれたと思っている。彼らが本を読む楽しさにどこまで気づいたかは知らないが。

第二に、検索エンジンの不備によって、優れた本に出合う機会が失われているのではないかという危惧があるからだ。たとえば、「ウクライナ戦争、本」と検索しても、小泉悠著『ウクライナ戦争』ばかりが上位に出てくる。こんな本を読んでも、ウクライナ戦争の本質を理解することなど100%できないにもかかわらず、過度の同調性を特徴とする日本人は、こんなディレッタントの本を読むように誘導されてしまうのだ。

もし三省堂や紀伊国屋書店に出向けば、ぼくの書いた『ウクライナ3.0』も手にすることができるだろう。立ち読みしてもらえば、小泉の本よりもぼくの本のほうがずっと優れた内容であることに気づいてくれる人も少なからずいるだろう。

そう。本屋に出向けば、SNSによる「無知の暴力」のようなものの被害に遭わなくてもすむのである。偶然の出会いが豊かな人生につながるかもしれないのだ。

これに関連して、第三に、本屋で何気なく立ち読みしたり、ぶらついたりする偶然性の大切さに気づいてほしいという理由もある。ぼくは、その昔、東京教育大学付属駒場高校に通っていた帰り道、週一度は渋谷の大盛堂に寄り道していた。そこで、忘れられない経験をしたことがある。店員にサラリーマンとおぼしき人が「暗号についての本はありませんか」と尋ねていたのだ。もう50年近く前の話だが、暗号研究の重要性にその人は気づいていたし、爾来、ぼくもまた暗号に関心をもつようになった。ドイツの「エニグマ」への関心や諜報活動への関心もすべてこのときの出来事が関係している。

ついでに、大学生だったころ、庄司薫著『ぼくの大好きな青髭』が単行本になる前に中央公論に連載中、その内容と同じ格好した人物が紀伊国屋書店三階にある喫茶店に現れたのを目撃したことがある。ぼくは、その喫茶店でいつもロイヤル・ミルクティーをのみながら紀伊国屋で買ったばかりの本を読んでいた。この日の出来事を中央公論社経由で庄司薫宛に手紙を書くと、彼の似顔絵が印刷してあるはがきが届いた。「君の将来を相当に心配しています」という出だしで、本人直筆の便りをいただいたことになる。こんなおもしろい経験ができるのも本屋なのだ。

 

書店での講演会

この「本屋へ行こう」運動の手始めとして、いまぼくは、もうすぐ刊行される『ウクライナ戦争をどうみるか:情報リテラシーの視点で』(仮題)を材料に書店での講演ができないか、家伝社という出版社にお願いしている。

あまり大人数ではなく、10人前後の人を相手に、「君たちはどうだまされてきたのか:ウクライナ戦争を題材にして」といった内容を話してみたいと考えている。

講談社に勤める友人から、大変に充実した情報を教えてもらった。書店での講演会は全国各地で開催されているらしい。たとえば、紀伊國屋書店札幌店、宮川春光堂(甲府)、大垣書店(京都)、蔦屋書店(梅田、奈良、広島、高知etc.)、米子今井書店(本の学校)などがある。地方では、図書館でも講演会が開かれているという。

まあ、ほんのわずかな一歩かもしれないが、余生はこうした人の役にたつことを少しずつやっていこうと思う。

このサイトを読んでいる人のなかで、こんなぼくのことを本屋に教えてもらい、講演の機会を設けてくれるような人がいればありがたいと勝手に念じている。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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