有名人の「嘘」:無知蒙昧にだまされるな!

私は、書き終えた『君たちはどうだましだまされてきたのか:無知の責任』、『ジャニーズ騒動の教訓:洗脳から身を守る方法:無知の責任』、『無知の責任:ジャニーズ・ファンの責任を問う』(いずれも仮題)において、有名人の「嘘」について、つぎのように書いておいた。

 

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 有名人は、ある共同体、ある地域、ある国において、多くの人に名前や顔などが知られている人物を意味している。有名人ではない人を「一般人」と呼ぶことにすると、一般人は有名人を何となく知っているという理由から、その有名人に親近感をいだくようになる。言葉も通じないような他者としてではなく、自分たちの「仲間」のような感情をもつ。ゆえに、有名人と一般人の間には、「語る-聞く」レベルの関係が築かれるともいえよう。

 有名人の側も、自分が一般人に知られていることを意識するようになると、自分の存在がすでに承認されているとの誤解から、自意識過剰になったりもする。いずれにしても、この「有名人-一般人」の関係には、他者が存在せず、「語る-聞く」というレベルの独我論的世界(自分の考えは万人に通用するとの見方)が広がりやすい、とくに過度の同調性を特徴とする日本ではそうだ。

 わかりやすくいえば、たとえ大谷翔平という有名人であっても、ロシアに行けば、ほぼだれも知らないだろう。そのとき大谷に他者に出合うことになり、「語る-聞く」といったレベルの立場ではいられない。

 

 有名人のインチキ

 拙著『知られざる地政学』には、ここで論じたような有名人論は登場しない。ただ、つぎのような話を紹介している。やや長いが、そのまま引用してみよう。

「 六年ほど前、『ロシア革命一〇〇年の教訓』という本を書いた。そのなかに、つぎのように書いておいた。

 

「「職業的革命家の役割は、このように普通、革命をおこなうことにあるのではなく、革命が起こったあとで権力につくことにある」と、アーレントは『革命について』のなかで喝破している。いずれの革命においても現実に起きたのは、古い権力が解体し、暴力手段に対するコントロールが失われたことであった。その権力の真空地帯に新しい権力構造が形成されたわけだ。この際の権力闘争において職業的革命家は有利な立場にあった。なぜかというと、有名人であったからにすぎない。問題なのは、その理論ではなく、彼らの名前が公に知られているということであった。すでに投獄されたり、お尋ね者扱いされたりして、有名であった彼らは人々への絶大な影響力をもっていたのである。

 やや脱線すると、現在の有名人も同じようなものだ。その能力とはまったく無関係に、性懲りもなくテレビに出たり、たくさんの本を書いたりして有名人となった連中は、その影響力においておぞましい力をもつ。彼らの化けの皮を剥ぐことも大切だが、有名人に騙されない見識を養うことも大切になる。」

 拙著『知られざる地政学』ではここまでしか紹介していない。だが、拙著『ロシア革命一〇〇年の教訓』には、もう少し別の興味深い内容も紹介している。それは、つぎのようなものだ。

 

「 ロシア革命の本質を本音で語った唯一の日本人は内村剛介であろうと筆者には思われる。その著書『ロシア無頼』を読めば、ロシアの真実がわかるような気がする。一九四五~五六年までラーゲリに抑留されていた内村だからこそ指摘できるロシアの内実があるからだ。

 彼の刺激的な見方を紹介しよう。

 「銀行を暴力で収奪したヤクザが若い日のスターリンであった(一九〇七年六月、国立銀行の巨額金塊を輸送する馬車がスターリンらに襲撃:引用者註)。その貢(みつ)ぎでレーニンが海外で暮らした。ペン一本で稼いだトロツキーは職業を持っていたから、このスターリンのやり口を許せなかった。レーニンやスターリンはトロツキーのように自分の手で稼がなかった。つまり職業という職業を持たないで革命だけを商売にした。そして自分自身を職業的革命家とかなんとか称しているが、この「無職ゆえの職業的革命家」は「無職のロシア無頼」とその信念、その手口において親類関係にあることは疑えない」(内村, 1980, pp. 63-64)。

 「「ボリシェヴィキを縛る法なんてものはない」というのがレーニンである。ボリシェヴィキはレーニンのひきいるロシアの共産党だが、この党はこと自分に関しては一切の法を認めない。「すべては許されてある」とドストエフスキーのスメルジャコフまがいに言うのである。法のないことをすなわち無法を20世紀の新たな法とするのがボリシェヴィキである」(内村, 1980, p. 28)。

 

 何がいいたいかというと、スターリンは強盗であったことが、レーニンは無職の職業革命家であったことが有名人になるきっかけとなり、権力者に昇り詰めるのに大いに役立ったということである。つまり、有名人や権力者になることは特別なことではなく、共同体、地域、国家のいびつな特殊事情によるのだ。したがって、彼らには時間や空間を超えて誇れるような普遍的価値はない。

 

 「知の巨人」立花隆は無知蒙昧

 『知られざる地政学』(上巻)において、「「知の巨人」立花隆は無知蒙昧」という項目を設けて、「日本において「知の巨人」と呼ばれてきた人物、立花隆もまた遺伝子組み換え問題に対して無知蒙昧そのものであった。この話は、佐藤進著『立花隆の無知蒙昧を衝く:遺伝子問題から宇宙論まで』(増補改訂版、社会評論社、2002 年)を読めばよくわかる」と書いておいた。

 立花が「知の巨人」であるというのは、日本という国家のなかでは常識かもしれない。しかし、それはあくまで一般人への宣伝によってつくり出された「神話」にすぎない。いわば、「語る-聞く」のレベルの一般人の誤解にすぎないように思われる。

 実は、こうした宣伝によって編み出された嘘がたくさんある。有名人がインチキだというのはそのことを指している。立花は「田中角栄研究」で有名になった。それだけである。この有名性をビジネスにうまく結びつけることで、できるだけその有名性を保持しつつ、カネ儲けに結びつけるかに比較的成功しただけの話なのだ。

 逆に、マスメディアがつくり出す恐ろしいまでの虚構は、その対象者を呑み込むこともある。私は、鷺沢萠という女流作家が縊死した理由をまったく知らないが、「まだ芥川賞には早いといわれている」という趣旨の話を彼女が二〇代のころに直接聞いたことがある。銀座のロシア料理レストラン、「バラライカ」でのことだった。上智大学外国語学部ロシア語科に在学中に文學界新人賞を当時最年少で受賞し、芥川賞候補にもなった彼女にとって、商品としての自分はどのようなものだったのだろう。

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百田尚樹が日本保守党を結党し、何やら騒いでいる。この人物が書いた「幻庵」という囲碁小説はなかなかおもしろかった。だが、私からみると、無知蒙昧である。

そもそも「保守主義」の意味がどうにも不可思議だ。「日本の国体、伝統文化を守る」ことが「保守」なのか。

私は違うと思う。この人は思想史を知らないようにみえる。

 

まずは進歩主義をめぐって

村上泰亮の論考を参考に、まずは、進歩主義からはじめよう。保守主義に対立する概念だからである。「進歩」(progress/Fortschritt)は、もともと、単に「(時間とともに)前に進む」という意味にすぎない。つまり、理想を追い求めるようなプラスイメージをもっていたわけではない。

ただ、現実には進歩主義は理想主義的な意味をもって語られている。そこで、困った村上は「思考姿勢としての進歩主義」を、「究極の唯一の理想的秩序が、あるいは少なくともそこへの一義的経路が、人間によって認識可能であると共に、人間の努力によって(現世)で実現可能であると信じる思考上の姿勢」と定義している。

わかりやすくいえば、この進歩主義の典型は、マルクス=レーニン主義であり、やがては共産主義的ユートピアの出現を信じてやまない。しかし、もはやこんな進歩主義を信奉している人はごくごく少数だろう。

 

保守主義とは

だが、こうした進歩主義の対局と考えられている保守主義(conservatism)は、単なる現状維持主義、守旧主義ではない。むしろ、進歩主義に対する反作用として理解すべきものだ。その意味で、保守主義とて、究極の唯一の理想的秩序が考えられることを否定しているわけではない。ただ、保守主義は、そうした理想状態が、人間によってにわかに認識可能であるとも実践可能であるとも考えない。人間は進歩もするが、退歩もするかもしれない。したがって、人間はひたすらに未来だけをめざしてひた走るのではなく、過去も慈しみながら生きてゆくのである。

 カール・マンハイムが指摘するように、近代社会を推進してきた主導力が産業化の推進という特定の実体的内容をもった進歩主義であったが、それに対する反作用として成立してきたのが保守主義なのである。

 こうした事情をまとめて、村上は以下のようにわかりやすく書いている(『反古典の政治経済学要綱』18頁)。

 

「近代的進歩主義は、十九世紀にはスミス流の資本主義の主張という形をとり、二十世紀にはそれがマルクス流の社会主義の主張という形に変わった。その間、人類社会が一つの理想的状態に向かって前進しているという信念は一貫していた。進歩主義がこのようにその時々の事態に変容するに応じて、保守主義もその主張の内容を変えながら、進歩主義を批判しブレーキをかける役割を果たしてきた。その意味で、保守主義も、変化に対する一つの思考の姿勢であって、固定した内容をもつものではなく、たん庵現状維持主義に終わるものではない。」

 

保守主義と正統主義の違い

この意味で、固定された静的な秩序の維持をめざす思想は保守主義ではない。むしろ、その指向は「正統主義」(orthodoxy)と呼ぶべきものだ。ギリシャ=ローマ文明、インド文明、中国文明、ヨーロッパ中世などのいわゆる有史文明は、この種の正統主義的社会と呼べるかもしれないが、日本の中世は宮廷と武士政権の間に秩序観念の分裂があり、正統主義的社会を特定するのが困難だ。にもかかわらず、「日本の国体、伝統文化を守る」と表現することに対しては、とてもなく大きな違和感をもつほうが普通であろう。

百田の日本保守党は、この違和感つきの正統主義政党であって、「復古主義」とも呼べる時代錯誤政党だろう。とても「保守」を顔した政党とは思えない。

 

有名人の無知蒙昧

またしても無知蒙昧な有名人がよくわからない名前のついた政党をつくって、日本全体の政治を混乱させようとしているのではないか、と私は懸念している。村上は、「進歩主義的文明は、超越論的=科学的思考の優位性の思想に基づいた文明である」とのべたうえで、「このような文明に取って代わる文明があるとすれば、それは、解釈学的=生活世界的思考により多くの重点をおいた思想に導かれる文明でなければなるまい」と書いている。

「簡単にいえば、超越論的=科学的文明は、新しい世界イメージを求めて驀進し、古い世界イメージを破壊あるいは吸収していこうとする文明であったが、それに対して、解釈学的=生活世界的文明とは、複数の世界イメージの共存を承認した上で、それらの重ね合わせを図っていくことを許す文明といえるだろう」と、村上は別言している。

この解釈学的=生活世界的文明こそ、保守主義によくあった世界観であるように思える。そんな見方からすると、百田の新党はまったく箸にも棒にもかからぬ政党だと指摘せざるをえない。

 

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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