【ボツ原稿の公表】ポーランド大統領を激怒させたゼレンスキー大統領:白鷲勲章の剥奪と再埋葬

例によって、ここにボツ原稿を公表する。提出後、6月6日までに明らかになったことも追加して書いたものである。読者に笑覧してもらい、こんなことを報道しようとしない多くのマスメディアのひどさを実感してもらいたい。

 

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ポーランド大統領を激怒させたゼレンスキー大統領

 

ポーランドのカロル・ナヴロツキ大統領(下の写真)は5月29日、2023年4月に当時のアンジェイ・ドゥダ大統領がウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領に授与した、ポーランドの最高勲章(白鷲勲章)の剥奪を求める意向を表明した。なぜナヴロツキが激怒したかというと、ゼレンスキーが5月26日、第二次世界大戦時の物議を醸す「ウクライナ蜂起軍」(Українська повстанська армія, УПА [UPA])を「英雄」として認定し、その「名誉名称」をある機関に付与する大統領令に署名したからだ。

その大統領令2026年440号は、「『ピヴニチ』特殊作戦独立センターへの名誉名称の付与について」という。同センターは、ウクライナ軍を構成する独立した軍種で、その構成には、偵察、直接行動、軍事支援の各分野の専門家で編成された特殊任務部隊および情報・心理作戦部隊が含まれるウクライナ軍特殊作戦部隊(SSO)に所属している。ゼレンスキーは、同機関に対して、「UPAの英雄」の名を冠する名誉名称を授与し、今後同機関を「SSO所属『UPAの英雄』記念『ピヴニチ』特殊作戦独立センター」と称するというのである。

カロル・ナヴロツキ大統領 PAP/Radek Pietruszka

(出所)https://www.polskieradio.pl/395/7784/artykul/3692960,polish-president-seeks-to-strip-zelensky-of-top-honour-over-ukrainian-units-name

 

一部のウクライナのナショナリストにとって、UPAはソ連やナチス・ドイツに対する抵抗活動を行った「英雄」とみなされているのは事実だ。しかし、UPAの戦闘員は1943年から1945年にかけて、現在のウクライナ西部にあたる地域で起きた「ヴォルィーニ虐殺」ないし「ヴォルィーニの悲劇」にも関与していた。つまり、ポーランドからみると、8万~10万人のポーランドの民間人が殺害されたと推定される虐殺の首謀者がUPAなのだ。ウクライナ側は、しばしばより低い数字(4万~6万人)を提示するが、ポーランド軍部隊によるウクライナ人への報復殺害(推定1万~2万人)を強調する。

2016年7月22日、ポーランド下院はヴォルィーニ虐殺を「ジェノサイド」として正式に認定した。加害者は、UPAおよびウクライナ民族主義者組織のステパーン・バンデーラ派閥(OUN-B)と考えられている。

ウクライナのナショナリストによるジェノサイドの犠牲者を追悼する「国民追悼の日」が毎年7月11日に開催される。その日が間近いなかで、ポーランドのナヴロツキ大統領がウクライナの大統領に憤慨するのは当然だろう。彼は6月8日に開催予定の白鷲勲章評議会の会合で、ゼレンスキーから同勲章(1705年に創設された、ポーランド最古かつ最高位の国家勲章)の剥奪を検討するよう要請した。

ついでに紹介しておくと、ゼレンスキー大統領が「UPAおよびドイツ・ナチスの協力者に敬意を表する」という決定を下したことを理由に、元ポーランド駐ウクライナ大使のバルトシュ・チホツキは、ゼレンスキー大統領から2022年に与えられた功労勲章を返還したと発表した(「テレグラム」を参照)。

他にも、極右系有力議員とされるクリシュトフ・ボサックは、6月2日に公開されたインタビューで、ウクライナがポーランドとの歴史的紛争を解決するまで、ポーランドはウクライナのEU加盟に向けた取り組みを阻止し、支援を縮小すべきだとのべたという(「キーウ・インディペンデント」を参照)。

さらに、6月5日、欧州議会のロベルタ・メツォリ議長に対し、ウクライナのゼレンスキー大統領から「欧州功労勲章」を剥奪するよう求める要請が寄せられた(「RMF24」を参照)。欧州功労勲章は今年、初めて授与されたもので、ゼレンスキーに加え、レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)やイェジ・ブゼクらが受賞した。

 

ナショナリズムへの傾斜:ゼレンスキー大統領

相変わらずウクライナを善とみなす西側の主要マスメディアは、ゼレンスキー大統領の裏面をタブー視し、報道しようとしていない。実はこのところ、ゼレンスキーはウクライナのナショナリズムを煽りつづけている。ウクライナ独立のためにナチスを利用したナショナリストらを肯定し、礼賛しているのだ。ウラジーミル・プーチン大統領がウクライナ全面侵攻の目的として挙げたウクライナの非軍事化と非(脱)ナチ化という二つのうちの一つこそ、このウクライナのナショナリスト礼賛であり、ナチス容認であったことを思い出すと、事態の深刻さがわかるだろう。

ゼレンスキーは、今年4月23日、「傑出したウクライナ人のパンテオン」(Pantheon of Outstanding Ukrainians)の創設を初めて公に発表した。広範な国家記憶政策の一環として、海外に埋葬されている著名なウクライナ人の本国への移送と再埋葬を行い、キーウに、ウクライナの国民的アイデンティティと国家形成に貢献したウクライナ人に捧げる国家記念空間、すなわち、「神殿」(パンテオン)と呼ぶにふさわしい場をつくるというのだ。

5月19日夕方の演説で、ゼレンスキーは、ウクライナ民族主義者組織(OUN)の指導者アンドリー・メルニクとその妻ソフィアの再埋葬に向けた準備作業がはじまったことを明らかにした。5月20日には、ルクセンブルクのボンヌヴォー墓地で、1938年から1964年までOUNの指導者を務めたメルニクとその妻をウクライナ側に引き渡す公式式典が行われた(下の写真①)。5月25日、国立軍事記念墓地において、ゼレンスキーの臨席の下、二人の遺骨の改葬式が行われた(下の写真②)。

写真① ルクセンブルクで行われた遺骨引き渡し式

(出所)https://thepublic.info/en/news/the-remains-of-andriy-melnyk-have-been-handed-over-to-ukraine-for-reburial

 

写真② メルニク夫妻の改葬式

(出所)https://www.rada.gov.ua/en/news/News/top_news/273058.html

 

何が問題なのか

このメルニク夫妻の遺骨帰還には、ウクライナ国内に賛否両論を巻き起こした。たとえば、元ポーランド大統領、ノーベル平和賞受賞者のワレサは、メルニクを改葬したことについて、ゼレンスキーを批判した。「私と、殺害されたすべての同胞を侮辱した」というのである。さらに、「これを受け、私は公の場で胸からウクライナの国旗を外した。国民(ウクライナ国民)に対しては、今後もソ連との闘いを支援し続ける。ゼレンスキー大統領への支持は撤回する」、と投稿した

それでは、なぜワレサはゼレンスキーを叱ったのだろうか。あまり馴染みがあるとは言えないメルニクだが、彼が指導者であったウクライナ民族主義者組織(OUN)の名前が、ステパーン・バンデーラという、OUNのもう一人の指導者を思い浮かばせるからだ。一時期、バンデーラは、アドルフ・ヒトラーと協力関係を築こうとした「有名人」である。つまり、OUNなるウクライナ独立をめざしたナショナリズム運動をあからさまに支持する姿勢が、ポーランド人、ユダヤ人、ロシア人などを虐殺したOUN所属のナショナリストへの過度の礼賛につながり、周辺国に大きなハレーションを引き起こすのである。

だが本当は、後述するように、バンデーラもメルニクも、ウクライナ独立という目的のために、ナチスに協力することを厭わなかったのであり、その意味で、メルニクへの敬意はナチス容認につながりかねない危うさをもつ。

 

プーチンによる論評

事態の深刻さをよく知るプーチンは6月5日、サンクトペテルブルク国際経済フォーラムの全体会議において、この問題について論評した。数々の話の一コマにすぎないが、あえてこの問題にふれたプーチンは、「つい最近、我々はナチスの犯罪者たちがウクライナの英雄として、軍礼と礼砲を伴って再埋葬されるのを目撃したばかりだ。そして、だれがそれをしているのか?キエフ政権の首脳、ユダヤ系の人物だ。まったく恐ろしい話だ!」と切り出した。もちろん、「ユダヤ系の人物」とはゼレンスキーを指す。つぎに、つぎのように語った。

「ポーランド人だけが、ほんの少しだけ、消極的に反応した。なぜ反応したのか?それは、第二次世界大戦中、まさにこれらのナチスによって、まず第一にユダヤ人とポーランド人、そしてもちろんロシア人も、さらにはロマも虐殺されたからだ。100万人もの人々が。」

さらに、つぎのようにつづけた。

「昨日も話しましたが、改めて触れておく価値はあるでしょう。これは「ホロコースト」と呼ばれる悲劇の大きな部分を占めています。100万人ですよ、わかりますか?子供や女性は熊手で刺し殺され、家の中で焼き殺された。彼ら[ナチスの犯罪者たち]は今、軍による栄誉ある再埋葬が行われており、現政権の首脳もその場に立ち会い、礼砲が鳴らされ、敬意が払われ、ナチスが英雄視されている。そこで私たちは、脱ナチ化を実現するという目標を掲げ、国際社会の支援を大いに期待しています。(拍手)」

100万人という数字がどこまでの確証性をもつかはわからない。それでも、ホローコストにかかわった人物を再埋葬するというゼレンスキーを非難しないほうがおかしいだろう。

 

ウクライナのナショナリズムの歴史

OUNをめぐる歴史について、メルニクを軸に説明すれば、ポーランド人がゼレンスキーに対して憤慨する理由がわかる。

メルニクは当初、第一次世界大戦においてオーストリア=ハンガリー側で戦ったウクライナ・セチ兵連隊(USS)の中隊長であったが、1916年、ロシア軍のブルシーロフ(ウクライナ西部)攻勢の際に捕虜となる。この際、ツァリツィン(現在のヴォルゴグラード)近郊の捕虜収容所で、彼はエフゲニー・コノヴァレツと知り合い、ロシアの二月革命後の混乱に乗じて、彼と共にキーウへ向かう。1917年秋、二人はブコヴィナ・クレーン(大隊)の結成に参加し、1918年1月、コノヴァレツが指揮を執り、ウクライナ人民共和国(UNR)のために戦う。このコノヴァレツこそ、第一次世界大戦後、ポーランド、ソ連、チェコスロバキア、ルーマニアによって分割されていたウクライナの完全独立をめざす、ウクライナ民族主義者組織(OUN、オウン)を1929年に設立した人物であり、この二人の関係がやがてメルニクの運命を拓く。

実は、1924年、メルニクはポーランドで逮捕され、4年間を獄中で過ごす。出所後は非合法活動から手を引いたが、コノヴァレツとは個人的な接触を維持していた。OUNが活動を展開する間、メルニクはウクライナ・ギリシャ・カトリック教会で働いていた。最初は教会の森林管理官として、その後、カトリック青年組織「オールィ」の代表も務めた。おそらく彼はそのままウクライナ・ギリシャ・カトリック教会の幹部として留まっていただろうが、1938年5月23日にソ連の諜報員から手渡されたチョコレート箱に仕掛けられた爆弾によりコノヴァレツが暗殺されたことが、転機となる。

当時、OUNには、コノヴァレツほど権威ある指導者が他にいなかった。コノヴァルツの形式上の副官は、ウクライナ人民共和国軍の元百人隊長ニコライ・シボルスキーであった。彼は「指導者代行」となったが、イデオロギー家であり組織者ではなかったため、実際に運動を率いるのに必要な影響力をもっていなかった。OUN指導部は後継者問題で分裂し、妥協案として、当時組織に全く所属しておらず、したがって「党内」の陰謀から遠く離れた人物であるメルニクに、空席となったポストが提案されるのだ。

結局、メルニクは、1938年10月11日、OUN指導者に任命される。だが、OUNの設立から最初の9年間、何一つ貢献しなかったメルニクの名は、空虚な響きに過ぎず、バンデーラの躍進を許すのである。バンデーラは、1932年から35年にかけてOUNの地方「指導者」を務め、ポーランドの内務大臣ペラツキ暗殺の首謀者として死刑判決(後に終身刑に減刑)を受けた人物だ。その後、獄中から逃げ出し、ソ連軍とドイツ軍に占領された地域を1カ月間さまよった末、ポーランドのクラクフにたどり着く。こうして、バンデーラはOUNでの活動を再開する。

 

OUNの分裂

1940年1月、双方メルニクとバンデーラは妥協点を見出そうとする。メルニクはバンデーラをローマに呼び、「OUN指導部」への参加を提案したが、バンデーラは旧体制派を指導部から排除することを条件としてのみ参加に同意する。しかし、メルニクはこれらの旧体制派の寵児であったため、その条件を受け入れることはできなかった。

同年2月、バンデーラはクラクフに戻り、組織の地方支部長27人を集め、自らをトップとする新指導機関「革命指導部」を設立する。この時点から、OUNは事実上、歴史家たちがOUN-B(バンデーラ派)とOUN-M(メルニク派)と呼ぶ二派閥に分裂した。ただし、これらの組織は自らをそのように呼んでいなかった。バンデーラ派もメルニク派も、自分たちこそが唯一の「正統な」OUNであり、対立勢力は裏切り者だと考えていたからである。

1940年9月27日、メルニク派はバンデーラをOUNの党員から除名し、 一方、バンデーラ派は1941年4月に大会を開き、「本物の」指導者としてバンデーラが選出された。

 

ナチスとの協力

重要なことは、両方のOUNがナチスの計画に積極的に加わったことだ。バンデーラ派は「ナハティガル」大隊を、メルニク派は「ローランド」大隊を結成した。これに加え、双方とも「行軍部隊」を結成し、ドイツ軍と共に都市へ進軍し、いずれかの派閥が他派に先駆けて地方政権を樹立するという同じ目的を掲げていた。両OUNは互いの計画を調整していなかったため、一連の深刻な衝突を引き起こす。

リヴィウではバンデーラ派が先に到着し、1941年6月30日、そこでバンデーラを首班とする独立ウクライナの樹立が宣言される。ドイツ軍が直ちにこの「企て」を鎮圧し、その主催者たちの逮捕を開始する(ライバルたちの捜索においてメルニク派がドイツ軍に積極的に協力した)。その頃までに、ドイツ軍はすでに、メルニク派のOUNがバンデーラ派よりも占領当局に対して忠実であることを理解しており、両派に対して異なる政策をとるようになる。

1941年9月12日、ドイツ軍情報部の代表ハンス・コッホがベルリンでバンデーラとヤロスラフ・ステツコと会談し、リヴィウで宣言された独立宣言を公に撤回するよう要求したが、彼らはこれを拒否した。この結果、OUN-Bの両指導者は逮捕され、占領地域では彼らの支持者に対する弾圧が始まる。これにより、メルニク派が優位に立ち、彼らはキーウを含むいくつかの都市で政権樹立の計画を実行に移すことができた。

しかし、1941年末には、メルニク派もドイツ人の目には信頼できない存在となり、その結果、「ウクライナ」帝国委員管区の各都市において、その代表者たちが逮捕され、さらには銃殺される事態に至る。しかし、総督府(すなわち旧ポーランド)の一部となった西ウクライナでは、 OUN-Mは、ドイツ人によるポーランド人に対する支えとして合法的に活動をつづけ、メルニク自身も1944年1月までベルリンにおける「ウクライナ代表」の地位を維持する。まさにメルニクの同志であるウラジーミル・クビヨヴィチの主導により、1943年にSS「ガリツィナ」師団が組織された。

 

メルニクの逮捕

1944年1月、メルニクはドイツ軍によって逮捕される。逮捕のきっかけとなったのは、ゲシュタポが発見した、OUN-Mが「ウクライナ」帝国管区内の地下組織との連絡を継続していることを示す文書であった。1944年の数カ月間、メルニクとバンデーラは著名な政治家向けの特別収容所「ザクセンハウゼン」で共に過ごし、同年9月から10月にかけて数週間の差を置いてナチスによって釈放された。

その頃には、赤軍がまもなくウクライナ全土を解放することはすでに明らかであり、そのためベルリンは、ソ連軍の背後での作戦を組織するために、これらの過激なナショナリスト指導者たちを利用しようとしていた。ただし実際には、終結間近だった第二次世界大戦の行方に対して、こうした思惑は実質的な影響を及ぼすことはなく、ドイツの降伏後も、分裂したOUNの両指導者はヨーロッパに残って暮らすことになる。メルニクはルクセンブルクで、バンデーラは西ドイツで。

西側連合国は彼らをソ連に引き渡すことはなかった。これには、両OUN指導者がドイツの強制収容所に収容されていたという事実が多少影響しており、彼らは、これを「自分たちもまた『ヒトラーの犠牲者』である」ことを示すために利用した。だが、より大きな要因となったのは政治的な思惑だった。ソ連と米国・英国との関係は急速に悪化しており、西側諸国では、モスクワとの冷戦が始まりつつあるなかで、ウクライナのナショナリストたちを同盟者として捉え始めていた。

ただ、彼らの運命はそれぞれ異なるものとなった。メルニクは公的生活に復帰し、ウクライナ民族主義者「プロヴォド」の指導者となった一方、バンデーラは偽名を使って身を隠さざるを得なかった。この違いの原因となったのは、記事の最初に登場したウクライナ蜂起軍(UPA)であった。バンデーラは1942年のその結成には関与していなかったが、同軍の象徴となったのである。まさにそのため、戦後、メルニクではなくバンデーラがソ連の秘密警察による追跡の対象となる。その追跡は、1959年にボグダン・スタシンスキーによる「毒弾」によって幕を閉じたのだ。

こうしてメルニクは1964年までルクセンブルクで平穏に生涯を終えた。他方で、バンデーラはウクライナ・ナショナリズムの伝説となり、その敵対者にとっては極めて否定的な人物として、党内の主要なライバル、たとえばメルニクを歴史の陰に追いやったのである。

 

実はメルニクはバンデーラ以上にナチスに協力

以上から、ウクライナのナショナリストがたどったナチス・ドイツとの協力という厄介な歴史も理解できるだろう。それだけではない。「メルニクとその同志たちは、バンデーラよりもはるかに多くの痕跡をナチス・ドイツとの協力、とりわけホロコースト(バビ・ヤールでの銃殺[1941年9月にキーウの峡谷で起きた4万人近いユダヤ人虐殺]におけるメルニク派の関与)に残している」という「ストラナー」の指摘はきわめて重要だ。つまり、メルニクへの敬意は、本当はバンデーラ崇拝以上に反ユダヤ主義に通底している可能性がある。

したがって、OUNの第二の指導者、メルニクの「遺骨を掘り起こす」ことは、実際にはウクライナ当局にとって覚悟の必要が決断だった。イスラエルはもちろん、ポーランドなどが反発するのは必至だからだ。だが、いまのところ、主要なマスメディアがほとんど報道しないために、ゼレンスキー政権の行っている、ここで紹介したような「ナチス寄り」の暴挙は見過ごされている。

 

時間の問題か

ただし、ゼレンスキーは今後、ロッテルダムに埋葬されている、先に紹介したOUNの創始者コノヴァレツの遺骨をウクライナに移そうとしている。さらに、ドイツ・ミュンヘンのヴァルトフリートホーフ(Waldfriedhof)墓地 に埋葬されているバンデーラの遺骨の扱いも問題になるだろう。ただし、後者については、ドイツの規則は厳しく、手続きを開始するだけでも近親者の同意が必要だが、30年以上も前からその同意を得ることができていない。

いずれにしても、コノヴァレツやバンデーラの遺骨のウクライナへの移転の話が表面化すれば、ゼレンスキーの裏側に潜む親ナチス的感情がマスメディアを通じて暴露されるかもしれない。読者にわかってほしいのは、こんな人物が大統領任期切れのまま2年以上、大統領の座にしがみついている現実である。そして、いつまでも「ゼレンスキー=善」というスタンスを変えようとしないマスメディアの不誠実に気づいてもらいたい。

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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