大澤真幸著『〈世界史〉の哲学 現代篇2 アメリカというなぞ』を読む (2)
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これこそが、物神崇拝(フェティシズム)が、貨幣という神への信仰が思念の側ではなく、実践の側にある、という現象である。意識のレベルでは物神崇拝はない。しかし、行動のレベルに物神崇拝がある。人々が知らないこと、人々が誤って認識していることは、彼らの意識とは裏腹に、商品交換という彼らの社会的な行動が貨幣=神という幻想に規定されているという事実である。だから、通常のイデオロギー的な幻想よりも一段階、誤認のレベルが余分になっている。誤認が二重化しているのだ。自分の行動についての誤った認識をもっているだけではなく、行動そのものがすでに幻想に準拠しているということを認識できていない。
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この問いに答えるには、まずは、「人間同士の関係の物神性」を、普通の語に戻しておいた方がよい。「人間同士の関係の物神性」とは、普通に言えば、「支配-従属」の関係である。このことは、前節で引用した『資本論』の脚注のことを思えば、すぐに理解できるだろう。その上で、私自身が使ってきた概念をここに導入する。「第三者の審級」という概念を、である。支配-従属の関係とは、この関係に内属する者にとって、支配者側にいる人間が、たとえば主人が、たとえば王が、第三者の審級として立ち現われている現象である。
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資本主義社会においては、任意の商品が、抽象的な価値をもつ。そして人間の労働は、その価値を清算する抽象的労働としての性格をもつ。その究極の原因は、第三者の審級であるところの
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貨幣が体現している価値の純粋な抽象性にある。それは、何ものとしても具体的に限定・特定されない価値である。ただの抽象的な価値そのものだ。
貨幣がこのような抽象性をもつのは、貨幣が(市場において)普遍的な交換可能性をもつからだ。貨幣は、普遍的な交換の媒体である。だから、貨幣は、どの使用価値とも交換できるがゆえに、使用価値をもたない。あるいは、「その使用価値でもない」ということ、「任意の使用価値へと転換させうる」ということ、それが貨幣の使用価値である。こうして、貨幣の価値は、任意の使用価値から遊離した抽象的なものとなる。
ここで重要なことは、貨幣=第三者の審級の抽象化は、観念の操作の結果ではなく、資本主義の浸透に伴う社会的実践の産物だった、ということである。市場経済がわれわれの生活のすみずみに入り込み、必要なものの大半を、貨幣を通じて購入するようになる。ほとんどすべてのモノが潜在的には商品であって、実際の現れや使用法とは独立に、抽象的な価値を内在させたものとして評価されるようになる。このような経験を通じて、はじめて、十分に抽象化された第三者の審級が、われわれにとって真に実効的な社会的現象になる。
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ここですこぶる重要なことは、モノたちの間のこの物神崇拝は、行動している当事者たちの意識には現れない、ということである。人々は、神に類するものは何信じてはいない、と思っている。そうした信仰は迷信臭いことで、自分はその種の信仰から無縁だと思っているだろう。なぜ商品たちの間で生じている物神崇拝は、意識されないのか。これこそ、第三者の審級が十分に抽象化したことの積極的な効果である。抽象化されつくした第三者の審級は、もはや(具体的な)対象性をもたない。そのため、人は、自分が何かを信じている、ということを自覚することがない。信仰の対象としては、ある意味では何もない、からである。何も信じていない意識の状態と抽象的な超越者を信じている意識の状態とを、自分自身の内省によって区別することはできない。
前々章で、われわれは、アメリカの歴史の中で、最初は厳しく対立していた「神God」と
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「お金Gold」が、しだいに漸近し、やがて融合し、最後には後者が前者を駆逐してしまうかのように見える、という多くの歴史家が見てきた事実を再確認しておいた。普通は、この事実は信仰の衰退を示す現象と考えられている。本人もそう思っているだろう。だが、そうではない。貨幣が、高度に抽象化された第三者の審級の典型であるということを思えば、GodからGoldへの遷移は、信仰そのものの内的な変容として解釈すべきだということがわかる。非合理的なまでのGoldへの欲望は、信仰の欠如ではなく、むしろ純化された信仰の表現である。
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哲学者レオ・シュトラウス⇒秘儀的esotericな知/公儀的exotericな知 p. 256 厳しい現実をよく知っているエリートは、民主主義のもとでどのように支配すべきか。彼らは、大衆に対して、「高貴な嘘noble lie」をつかなくてはならない。すなわち、エリートは、大衆受けする「おとぎ話」で人々を満足させ、かれらを幸福な無知のもとにおいた上で、必要な手段を実行に移すのだ。この大衆受けのするおとぎ話、「高貴な嘘」が公儀的な知である。
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アラン・ブルーム著『アメリカン・マインドの終焉』
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17世紀に始まる啓蒙の運動は、宗教批判として始まる。哲学による宗教の批判として、である。シュトラウスの考えでは、それは「理性の自己充足」を目指そうとする運動だ。しかし、この近代合理主義は自己破綻に至る。これが、近代哲学、近代政治哲学の流れについてのシュトラウスの基本的な構図である。もう少しだけていねいに見ておこう。
啓蒙の哲学の結論は、要するに、「科学的知こそが知の最高の形態だ」というものだ。シュトラウスはこのように啓蒙哲学の目指していたものを認定するわけだが、これは、思想史・学問史についての常識的な理解とも合致している。しかしシュトラウスは、この啓蒙哲学の結論には同意していない。彼は、近代科学そのものを拒否する神秘主義者ではないが、科学的知を至高の知と見なすべきではない、と考えていた。言い換えれば、前-科学的知、非-科学的知の価値を貶めるべきではない、というわけだ。この論点については、次節であらためて取り上げる。まずは、近代哲学の帰趨を、シュトラウスに従って見定めておこう。
宗教を批判し、科学的知を優越させるということは、どういうことか。シュトラウスの見るところでは、17世紀において、哲学者たちは――ホッブズやスピノザは――、科学の名のもとで、前-科学的知の価値を引き下げるわけだが、そのことは何を意味しているのか。それは、科学における真理の基準を唯一の真理の基準とすることである。その基準とは、「(知の)確実性」ということだ。
科学的知の優位は、実践(倫理)に対する理論の優位をも含意する。すなわち、実践(倫理)
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は理論へと還元される。したがって、次のようにならざるをえない。「人間存在」事態をも、科学的に定義された自然の一部としてとらえ、そこから実践的含意―普遍的道徳とは何か――を導き出すこと。17世紀の哲学者たちが目指していたのは、これであろう。その結果はどうだったのか。
この点についてのシュトラウスの解釈を説明する前に、近代哲学の述べてきたような運動が、政治的な場面で進捗していたある現象と並行し、連動していたということを確認しておこう。それは、政治から神学を切り離そうとする近代初期(近世)の試みである。シュトラウスは、若い頃(ドイツ時代)の著作、すなわち『スピノザの宗教批判』(1930年)や『ホッブズの政治学』(1936年)に関して、後年――英訳版や新版の序文で――、それらの著作の執筆を動機づけていた主題が「神学-政治的困難」「神学-政治問題」であったと示唆している。「神学-政治的困難」は神学と政治を切り離したことによる、哲学的、神学的、そして政治的な悲惨な帰結を指している。どうして悲惨なことになるのか。それは、科学的知を優越させた近代哲学が、つまり理性の自己充足性を前提にした哲学が、結局、失敗するからだ。
実践を理論に従属させたとき、近代合理主義は、実践を導きうる真理を、科学的な基準に合致するような人間的自然から引き出さなくてはならない。が、結局、そんな真理は存在しない、ということが明らかになる。近代哲学は、われわれの行動に究極的な意味を与える、歴史を超えた普遍的な真理など存在しないことを確認する。その結果は、徹底した歴史相対主義である。われわれの行動は、特殊な歴史文化的コンテクストの中で、偶有的な意味をもつに過ぎない。また、近代の政治哲学は、科学的な基準に合致した人間的自然の概念から、普遍的な道徳や普遍的な法を
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導くことができないことを知った。要するに、啓蒙に始まる近代合理主義は、己の原則に基づいて徹底して前に進んだ末、自滅したのだ。
たとえばハイデガー。ハイデガーも科学技術や近代合理主義に批判的だったので、シュトラウスはハイデガーに賛同していたと推測したくなるが、そうではない。シュトラウスによれば、ハイデガーの哲学もまた、近代合理主義の産物である。そのような意味において、なのか。シュトラウスの目には、ハイデガーは、歴史(相対)主義者に見えるのだ。人間(現存在)の「世界内存在」性を根源的な事実とするハイデガーは、歴史を超越する心理や意味を見出してはいない、と。
さて、すると、シュトラウスにとって秘儀的なメッセージとは何か。哲学の伝統の中にある隠されたメッセージとは何か。一般の人々には耐え難い秘密とは何であろうか。とりあえずは次のようなことだ、ということになるだろう。われわれの存在や行動には、いかなる深い意味もない。歴史の中のわれわれの営みや闘争が、最終的に幸福な結果へと至るいかなる保証もない。われわれが道徳と信じているものは、集団的な偏見のようなものであって、普遍的な根拠をもたない。社会秩序を根拠づける自然の土台のようなものはない。さらに、近代の合理主義が宗教批判から始まったことを思えば、秘密のリストに次のことを加えなくてはならない。神は存在しない。ゆえに不死の魂も、また神的な――それゆえに普遍的な――正義も存在しない。
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当然、これらのことを否認するのが、大衆の慰めとなる公儀的なメッセージ、「高貴な嘘」である。われわれの生には意味がある。歴史には幸福な目的がある。われわれがやったことに報いたり、それを罰したりする神が存在する。神の正義はある。等々。
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ここで、第2節の最後に述べたことをふりかえってみよう。秘儀的なメッセージと公儀的なメッセージをいくつか列挙した。そこからわかるように、「信じうる神が存在している」は、本来は、大衆向けの、公儀的な教えのひとつである。メビウスの帯をたどるような反転が生じているのだ。秘儀的な秘密の真理を探ったところ、それは、(もともとの)公儀的な教えのただ中に見つかったのだ。「私は神を信じている」という秘儀的なメッセージにおいて示される信仰は、本人の自覚なき信仰、自覚に背反する信仰、否認された信仰である。本人はむしろ、素朴な信仰を拒否しているつもりだ。哲学者としての理性を保ち、ただ啓示の論理的な可能性だけを認定している、と。しかし、シュトラウスの、あるいはシュトラウス主義者のほんとうの秘密、本人も対自化できていない秘密は、「信仰」である。ということは、彼らは、自分で自分にすっかり騙されていることになる。ほんとうは率直で素朴な信仰をもっているのに、大衆に対する自らの啓蒙的な態度が、その信仰を(自分自身に対しても)見えないものにしているからだ。
どうして、アメリカの一部の政治的エリートや知識人が、レオ・シュトラウスに魅了されたのか。その理由は、以上の説明の中にすでに示唆されている。前章で見たように、アメリカのキリスト教の伝統の中から、当人の意識の上ではほとんど無神論として現れるような、無意識の信仰――意識しなくても行動を明確に規定する信仰――が生まれ、発達した。ほんとうはこのような
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信仰の類型は、アメリカにだけあるわけではないのだが、とりわけアメリカでは強力なものになった、と考えられる。独立革命のときには、このタイプの信仰は、古代ローマへのあこがれというかたちで表出され、憲法秩序を創設する行為を可能にした。レオ・シュトラウスの哲学のアメリカの知識人やエリートへの波及もまた、このような信仰の類型がアメリカに持続していることのひとつの証拠である。
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